2011年12月7日水曜日

12月6日(火)のツイッター

18:12 from Tweet Button 先の【正論】の小堀桂一郎氏の論考に続く正当な見解だと思う。>> <<【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 女性宮家創設は荊の道の始まり - MSN産経ニュース http://t.co/537aCosR>> <<参考「至高の国家形態http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060209

追記(2011・12・07)

引用した記事が失われる場合があるので参考までに保存して記録。

>>
【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 女性宮家創設は荊の道の始まり

2011.12.6 02:33

 宮内庁の羽毛田信吾長官は10月5日、野田佳彦首相に直接、「女性宮家」創設により皇族方の減少を食い止めることが喫緊の課題だと伝えたという。これを受けて11月25日、藤村修官房長官は「政府としても今後検討していく必要がある」と発言し、その後、政府内に勉強会が設置された。

 ≪「有識者会議」の焼き直し≫

 「女性宮家」の創設が提唱されるのは、現行の皇室典範12条で女性皇族は結婚すれば皇籍を離れなければならないが、結婚後も皇籍に留まるようにすることで、皇族の減少を防ぎ、これによって天皇陛下の公務のご負担を軽減するためだとされる。

 しかし、皇族の減少を防いで、天皇陛下の公務のご負担を軽減するためという理由は直ちに、「女性宮家」創設という結論に結び付かないはずである。何よりも、天皇陛下の公務のご負担の軽減は公務自体のあり方を見直し、数を減らせばよいのであって、年々公務を肥大させ、陛下にご負担を強いているのは宮内庁の責任である。また、皇族の減少を防ぐには、後述するように別の方法もあるのであり、「女性宮家」の創設は順序としてそれを検討した後でなければならない。

 端的に言えば、この度の「女性宮家」創設の提案は、6年前の「皇室典範に関する有識者会議」の報告書の焼き直しである。同報告書は主として、(1)女性天皇・女系天皇の容認(2)皇位継承順位の長子優先(3)女性宮家の創設-の3点を提唱した。今回の提案は、6年前に議論が集中した(1)と(2)を避けて、(3)だけを持ち出したものである。しかし、「女性宮家」の創設は、宮内庁や政府関係者が考えているほど簡単なものではない。

 ≪前途に立ちはだかる9の難問≫

 第一に、女性宮には皇位継承権があるのかが検討されなければならない。継承権があるとすれば、これは「女性天皇」容認と同じことになる。皇位継承権とは皇位に就く法的権限だからである。逆に継承権がなければ、女性宮は単なる皇室の公務の分担者という位置づけになる。

 第二に、皇位継承順位をどうするのかが問題となる。男子優先とするのか、長子優先なのかということである。

 第三に、いっそう本質的な問題であるが、「女性宮家」は一代限りなのか、それとも世襲とするかが検討されなければならない。世襲ということになれば、女性宮のお子様は男子であれ女子であれ、「女系」の皇族ということになり、この方々が皇位継承権を持つならば、それはそのまま「女系天皇」容認を意味する。そして、それは神武天皇以来125代にわたって一貫して「男系」で継承されてきた皇位継承原理に、一大変革をもたらすものとなる。

 第四に、女性宮の配偶者は皇族とするのか、公務に携わるのか、敬称はどうするのかが検討されなければならない。また、「女性宮家」を一代限りとし、配偶者は皇族でないとした場合、配偶者はその氏を名乗り続けるのか、夫婦別姓とならないかも問題となる。

 第五に、第三の点とも関連するが、世襲を避けて「女性宮家」を一代限りとした場合に、お子様は皇族とするのか否か、敬称はどうするのか、氏はどうするかも問題となる。

 第六に、皇族に支給される皇族費はどなたを対象にするのか。一代限りの場合、配偶者やお子様にも支給されるのか。

 ≪女系天皇に道開く一大変革≫

 第七に、女性宮の候補者としてどなたを想定しているのか。例えば、遡及(そきゅう)して天皇陛下のご長女の黒田清子さんも想定しているのか。天皇陛下から見れば、いとこのお子様という関係になる寛仁親王家や高円宮家の女王殿下も対象とするのか。政府内の勉強会では「天皇の子と孫」という案が出ている。

第八に、対象者全員に「女性宮家」創設を強制できるのか。ご自身はそのつもりで育っていない、ということにならないのか。

 第九に、強制ではなく、ご本人の意思を尊重するとした場合、逆に恣意(しい)や政治的意思が働かないかといったことが問題となる。

 かつて慶応大学教授の笠原英彦氏は女性天皇容認を「荊(いばら)の道の始まり」(『女帝誕生』)と述べたが、「女性宮家」創設にも同じ厄介な問題が続出する。それは「女性宮家」が皇室の歴史にはない全く新しい存在だからである。

 羽毛田長官は野田首相に現在の皇族の範囲の図を示して説明したという。初めに結論あってのことと思われる。だが、皇族の数を増やすに際して歴史的に用いられたのは、神武天皇以来の男系の血を継承した方々に皇籍に戻っていただくという方法である。今日で言えば、戦後まもなく皇籍離脱を余儀なくされた旧11宮家の方々に皇籍に戻っていただくことも検討されてよいが、有識者会議も真面目に検討した形跡はない。

 政府は、「女性宮家」創設という「荊の道」ではなく、「男系継承」という歴史的に踏み固められた道を選ぶべきであろう。(やぎ ひでつぐ)

© 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital


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2011年11月29日火曜日

小堀桂一郎氏「皇室の御安泰を真剣に考へる秋」について

小堀桂一郎氏「皇室の御安泰を真剣に考へる秋」について

【正論】東京大学名誉教授・小堀桂一郎 皇室の御安泰を真剣に考へる秋 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/111123/imp11112302580000-n1.htm

小堀桂一郎氏が「皇室の御安泰を真剣に考へる秋」と題して、現在の皇室問題を論じておられる。その核心にある問題点を指摘した結論としてもっとも正しい見解と立場を示していると思う。かっての「有識者会議」なるものは、むしろ「凡識者会議」とも名付けた方がよかったのかどうかわからないが、その座長を務めた吉川 弘之氏などに果たしてこうした問題に発言する資格があるかどうかが問われなければならない。もちろんロボット工学者だから歴史問題について発言する資格はないとまでは言わないが、国家の根幹に関わる問題についての決定に参画する資格が、果たして「有識者」と呼ばれる人たちに本当にあるのかどうかについては、会議を組織する以前に真剣に検討される必要があるだろう。

皇室典範に関する有識者会議 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/

このような問題は「民主主義」の原理である「多数決による決着」などとはまったくなじまないテーマであることだけは確認されておく必要がある。「真理」についての判断は、ただ認識の質のみが、哲学の高低、論証の正否のみが問題にされなければならない。

その核心は、日本の皇室の「系譜の論理」を確認し、それを過去と同様に未来永劫において踏襲してゆくことにある。それは「国家の論理」から導かれるものであって、この問題に関しては、小堀氏が述べられているように、イギリスなどの外国の影響を考える必要は全くない。日本国に固有の論理に従って判断すべきことだからだ。

追記(2011・12・07)

引用した記事が失われる場合があるので参考までに保存して記録。

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【正論】東京大学名誉教授・小堀桂一郎 皇室の御安泰を真剣に考へる秋

平成21年元旦の本欄に於(お)いて、筆者は、「皇位継承に制度的安定を」と題して見解を述べる機会を得た。それは、標題に云ふところの制度的安定を図る研究は或る民間の組織によりほぼ完了したので、後は、その方策の実現を政治の力に俟(ま)つばかりであるとの含みを持たせた意見表明だつた。
ところが、その夏に政権交代といふ事態が発生し、新たに政権の座に就いた民主党内閣の下では、この問題についての正統性に則つた論議は到底望めないと判断し、以後、皇室典範の再検討に関はる議論には公の場での発言を控へ、沈黙を守ることにしてゐた。

≪宮内庁長官の発言には疑問≫

ところで、宮内庁の羽毛田信吾長官は去る10月27日の定例記者会見で、現行の皇室典範には〈皇位の安定的継承という意味で課題がある〉との旨を述べた由である。〈課題〉といふのは、これから解決しておかなくてはならない問題性、難点といふ意味であらう。

この日の会見での羽毛田長官の発言は、英国の王位継承法に、継承順位を男子優先から男女の別を問はぬ長子優先へと改める動きがある(10月29日に英連邦首脳会議で法改正に合意が成立したと報じられてゐる)との報道についての感想を求められての答へであつたさうである。

英王室の王位継承法にどの様な改定が行はれようと、それはその国固有の歴史と当面の事情や輿論(よろん)の動向に従つてのことであらうから、我々はそれを唯(ただ)静観してゐればよろしく、何らの注釈も意見も挿(さしはさ)む必要がない。

然(しか)し、宮内庁長官が右の外国の事情を何故か念頭に置いた様子で、我が国では幾人かの女性皇族の方々が結婚に近い年齢になつてをられる時、皇位継承の安定と(女性宮様方の今後の)ご活動といふ意味で課題が生じてゐる、と述べてゐる点については批評と注釈が必要であらう。

先づ、皇位継承の安定といふ事については、現在、今上天皇の次代以下の世代に皇位継承権者がお三方居(お)られる。その意味で、皇位の将来は実は安定してをり、謂(い)はば問題がない。

≪負担軽減目的なら皇族増加も≫

問題はむしろ、現在の継承権者が現実に皇位にお即(つ)きになつた将来に於いて、その陛下のお近くに在つて公務を御支へ申し上げ、必要に応じて代行をも務められる皇族の数があまりにも少く、且(か)つ、当分その増加を期待することができない、といふ点にある。

その脈絡に関してならば、宮内庁長官の所見に云ふ、女性皇族が御(ご)結婚によつて皇籍を離れ、一民間人となることへの疑問、従つて女性の宮様が結婚されても依然として皇族の身分を保たれ、両陛下の公務の補助・代行を務められる様に法改正するのが課題だとの着想は首肯できる。

但(ただ)し、かうして創立された女性皇族を中心とする新しい宮家が皇位継承の安定に寄与し得るか否かは、その結婚のお相手となる男性の血統によつて決ることであり、直接には長官のいふ所の安定にはつながらないと考へるべきである。差当つては、どこまでも皇室の御公務の御負担の軽減といふ点に貢献する存在と受けとめておくのが適当である。

誤解を招かない様に付記しておくが、皇位継承の安定にも寄与し得る形での女性宮家の創立といふことももちろん可能である。それは右に記した如(ごと)く、今後、結婚される女王様方の御配偶が、血統の上で皇統につながつてをり、且つ、それが、なるべく近い過去に於いて、そのつながりが証示できる様な方であれば、その御当人ではなくとも、その次の世代の男子(母方の血筋からしても、皇室の血を引いてをられることが明らかなのであるから)が、皇位継承権を保有されることは、系譜の論理から言つて、道理に適(かな)つたものになる。

≪法改正は些小の修正で済む≫

以上に記したことは、現行皇室典範の比較的軽微な改正を以て実現できる事項である。肇国(ちょうこく)以来厳修されてきた我が国の皇位継承上不易の三大原則(念の為(ため)記しておくならば、〈一 皇祚(こうそ)を踐(ふ)むは皇胤(こういん)に限る〉〈二 皇祚を踐むは男系に限る〉〈三 皇祚は一系にして分裂すべからず〉の三項)については、事新しく再検討を促す必要は全く無い。宮家の増設といふ目的のためには、法規運用技術上の観点から現行法に些小(さしょう)の修訂を施せば済む事である。

従つて一片の醜聞に終つた曾(かつ)ての「皇室典範に関する有識者会議」の如き仰々しき委員会めいたものを組織する必要もない。少数の良識ある法曹家及び国史学者に委託すれば然るべき改訂が成就できるであらう。

3月の東日本太平洋岸大震災に際しての被災民の救恤(きゅうじゅつ)と慰撫激励の上で、国民統合の象徴としての天皇と皇室の御仁慈が如何に貴重であり、又有難いものであるか、国民全体が又改めて認識を深めたところである。皇室の御安泰と御清栄は即(すなわ)ち国民の安寧の最大の拠(よ)りどころである。今又、その事を真剣に考へるべき秋(とき)になつてゐる様である。(こぼり けいいちろう)

c 2011 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

2011年11月9日水曜日

日本に原爆は必要か?

日本に原爆は必要か?

武田邦彦教授がご自身のブログで「日本に原爆は必要か?」と問うておられる。そして、ご自身の論考によれば武田教授は「①原発廃止に賛成であるゆえに②核武装に反対」と結論されておられるようだ。

■日本に原爆は必要か?
http://takedanet.com/2011/11/post_0158.html

武田邦彦教授の働きについては、今年の三月十一日の東北大地震と大津波による福島第一原子力発電所事故以来の東北地方の放射能汚染に対して、良心的なその警告と啓蒙活動に対して一定の評価もし、このブログでもリンクさせていただいたりしていた。

しかし、放射能汚染とはまた異なった日本の原子力発電に関する政策問題や核武装といった軍事問題に対する武田教授のこれらの結論に本当に問題はないのだろうか。

武田氏はご自身の論考のなかで、「原子力発電」と「核武装」を論理的に直結させておられるようであるが、これは必ずしも正しくないのではないか。というのは、西尾幹二氏などがブログなどで主張されているように、「脱原発には賛成であるが、核武装は必要である」という立場もあるからである。その一方に今の武田邦彦氏のように「脱原発と同時に核武装にも反対」という「平和主義的脱原発」という立場もある。

いわゆる「右派」に属すると思われている西尾幹二氏らの認識によれば、現実はむしろ日本は「原子力発電」ゆえに核武装ができないでいるのである。

WiLL8月号「平和主義ではない脱原発」(六)
http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=1098

原発と核武装は論理的に必ずしも直結するものではない。国内に必ずしも原子力発電所がなくても、強固な意志さえあれば、インドやパキスタン、イスラエル、さらには北朝鮮からだって核兵器を輸入することは論理的には可能であり、それによって核武装はできる。もちろん、原子力発電とは無関係に、核武装のためだけに原子力核科学技術を開発育成することもできる。

だから、「日本は原爆を持たなければならないから、原発は必要」と考えているいわゆる右派を、原発不要派に転向させるための論理として、武田氏が「1、地震国日本は原発に耐えられないから、脱原発に進むべきだ。2、「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」から「日本に核武装は要らない」という持論を保持しているのであれば、問題は大きい。

その理由の一つとして、第二次世界大戦で日本のヒロシマとナガサキに原爆が投下されたのは、当時の日本にはまだ原子爆弾を開発出来ておらず、アメリカに対して核報復攻撃を行う能力がなかったからであると考えられること。

それに、もし武田氏が「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」から「日本に核武装は要らない」と考えておられるとすれば、本当にそうであるなら、諸外国の核兵器に向かって、戦前の武士道日本軍のお得意の万歳突撃をさせてみればいい。そうすれば、現実によって「日本兵ほど世界で強い兵士はいない」が本当かどうかが教えられるだろう。

私の立場は基本的には櫻井よしこ氏のそれとほぼ同じである。ついでにいえば、最近に問題になっている、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加問題についてもそうである。

国家基本問題研究所(国基研・JINF)
http://jinf.jp/

またさらに、私自身としては、「1、自衛隊と防衛省をそれぞれ新日本国軍と国防省に発展改組すること。2、核弾頭を搭載した原子力潜水艦を15隻を、日本全国の秘密基地に配備、常時巡回させること」それ以外に日本の自由と独立を現実に担保する方法はないと考えている。

参考
10月21日(金)のつぶやき
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20111022




・・

2011年10月2日日曜日

10月1日(土)のツイッター

13:48 from web
前回§50の欲望のあたりまで進みかけたが、今一度立ち戻って、意識と自己意識の関連について確認しておきたい。意識→自己意識→欲望→相互承認という、意識の進展、あるいは精神の進展を展望しながらも、意識一般の概念について立ち戻って、その詳細を見ておきたい。
13:57 from web
§42 感性的意識
意識はさしあたり直接的な意識である。だから、対象に対する意識の関係は、単純な媒介されない、対象についての確実性である。それゆえ、対象自身も同様に、直接的な対象として、存在し、自己内に反省している対象として規定される。それはさらに、個別的なものと規定されている。
19:51 from Saezuri
自我自身は単に形式的な同一性として存在するに過ぎないから、概念の弁証法的な運動は、すなわち、意識の進行は、自我にとっては自分の活動として存在するのではなくて、本来的にあるものであり、意識にとっては対象の変化として現れる。§39
19:57 from Saezuri
「私」、すなわち意識の主体は思考である。対象の在り方における論理的な進行は、主体と客体とにおいて同一のものであり、主体と客体との絶対的な関係であり、客体をも主体自身のものたらしめるものである。い (ibid§39 )
20:04 from Saezuri
カント哲学はラインホルドによって、表象能力という名の下で、意識の理論として把握されたということは、カント哲学の正当な意義を捉えたものと見るべきである。なぜなら、カント哲学は、「私」を、彼岸に横たわっているもの、すなわち、物自体に対する関係として考察する。 (ibid補注   )
20:15 from Saezuri
フィヒテ哲学もカントと同じように、非我はもっぱら「私」の対象として、意識によって規定されているに過ぎない。だから、非我はどこまでも到達できない無限の対象として、すなわち、物自体として残っている。この二つの哲学は、概念に、すなわち自己自身において存在する精神には理解が及ばない。39
20:29 from Saezuri
スピノザ哲学においては、精神は、自己を「私」として、どのように判断するかは自由な主体として構成する自己分割、判断、つまりA=Aが、精神の絶対的な在り方だと認めるがゆえに、哲学はスピノザ哲学から始まる。§39補注
21:17 from Saezuri
意識としての精神の目的は、自己の現象を自己の本質と一致させること、自分自身の確信を真理にまで高めることである。精神が意識の中にもつ実際存在は自己の有限性を意識の中にもっている。だから精神が自己と形式的に関係することは、たんなる確信に過ぎない。a
21:44 from Saezuri
なぜなら、客体は単に抽象的に精神自身のものと決められている過ぎず、あるいは、客体の中にあって精神は、ただ抽象的に自分のものとして決められている過ぎないか、あるいは、精神は意識の中で、自分自身の中で、抽象的な「私」として反映しているだけのものである。b
21:46 from web
だから、この実際存在はまだなんら自分自自身のものではない一個の内容でしかない。c
22:28 from Saezuri
単なる表象は確信と真理を区別しない。内容がつまらなく劣悪なものであっても、その表象が客体と一致する主観的なものでありさえすればいい。
22:28 from Saezuri
しかし、哲学においては真理の概念は本質的にたんなる確信にすぎないものから区別されなければならない。
22:31 from Saezuri
なぜなら、精神がたんなる意識の立場にあるところの自分自身についてもつところの確信は、非真理のもの、自分自身に矛盾するものである。というのも自分自身の許にあるという抽象的な確信のすぐ側で、ほとんど正反対の確信を、自分にとって本質的に自身に向かう他者として振る舞う確信を精神はもつ。
22:43 from Saezuri
この矛盾は解消されなければならない。§40
主体的な確信は、対象について何らの制限も残してはならない。主体的な確信は真の客観性に至らなければならない。
23:43 from Saezuri
§417
確信が真理に高まる段階は次の通りである。
a. 意識一般としてあること。こうしたものとして  は、対象は対象としてある。
b.自己意識、自己意識にとっては、「私」が対象で  ある。
23:43 from Saezuri
c.意識と自己意識との統一。精神は対象の内容を
自分自身として、そして、自己の上にありかつ   自己に対して定められたものとして自分自身を   直観する。理性、精神の概念。
by soratine on Twitter



10月1日(土)のツイッター

13:48 from web
前回§50の欲望のあたりまで進みかけたが、今一度立ち戻って、意識と自己意識の関連について確認しておきたい。意識→自己意識→欲望→相互承認という、意識の進展、あるいは精神の進展を展望しながらも、意識一般の概念について立ち戻って、その詳細を見ておきたい。
13:57 from web
§42 感性的意識
意識はさしあたり直接的な意識である。だから、対象に対する意識の関係は、単純な媒介されない、対象についての確実性である。それゆえ、対象自身も同様に、直接的な対象として、存在し、自己内に反省している対象として規定される。それはさらに、個別的なものと規定されている。
19:51 from Saezuri
自我自身は単に形式的な同一性として存在するに過ぎないから、概念の弁証法的な運動は、すなわち、意識の進行は、自我にとっては自分の活動として存在するのではなくて、本来的にあるものであり、意識にとっては対象の変化として現れる。§39
19:57 from Saezuri
「私」、すなわち意識の主体は思考である。対象の在り方における論理的な進行は、主体と客体とにおいて同一のものであり、主体と客体との絶対的な関係であり、客体をも主体自身のものたらしめるものである。い (ibid§39 )
20:04 from Saezuri
カント哲学はラインホルドによって、表象能力という名の下で、意識の理論として把握されたということは、カント哲学の正当な意義を捉えたものと見るべきである。なぜなら、カント哲学は、「私」を、彼岸に横たわっているもの、すなわち、物自体に対する関係として考察する。 (ibid補注   )
20:15 from Saezuri
フィヒテ哲学もカントと同じように、非我はもっぱら「私」の対象として、意識によって規定されているに過ぎない。だから、非我はどこまでも到達できない無限の対象として、すなわち、物自体として残っている。この二つの哲学は、概念に、すなわち自己自身において存在する精神には理解が及ばない。39
20:29 from Saezuri
スピノザ哲学においては、精神は、自己を「私」として、どのように判断するかは自由な主体として構成する自己分割、判断、つまりA=Aが、精神の絶対的な在り方だと認めるがゆえに、哲学はスピノザ哲学から始まる。§39補注
21:17 from Saezuri
意識としての精神の目的は、自己の現象を自己の本質と一致させること、自分自身の確信を真理にまで高めることである。精神が意識の中にもつ実際存在は自己の有限性を意識の中にもっている。だから精神が自己と形式的に関係することは、たんなる確信に過ぎない。a
21:44 from Saezuri
なぜなら、客体は単に抽象的に精神自身のものと決められている過ぎず、あるいは、客体の中にあって精神は、ただ抽象的に自分のものとして決められている過ぎないか、あるいは、精神は意識の中で、自分自身の中で、抽象的な「私」として反映しているだけのものである。b
21:46 from web
だから、この実際存在はまだなんら自分自自身のものではない一個の内容でしかない。c
22:28 from Saezuri
単なる表象は確信と真理を区別しない。内容がつまらなく劣悪なものであっても、その表象が客体と一致する主観的なものでありさえすればいい。
22:28 from Saezuri
しかし、哲学においては真理の概念は本質的にたんなる確信にすぎないものから区別されなければならない。
22:31 from Saezuri
なぜなら、精神がたんなる意識の立場にあるところの自分自身についてもつところの確信は、非真理のもの、自分自身に矛盾するものである。というのも自分自身の許にあるという抽象的な確信のすぐ側で、ほとんど正反対の確信を、自分にとって本質的に自身に向かう他者として振る舞う確信を精神はもつ。
22:43 from Saezuri
この矛盾は解消されなければならない。§40
主体的な確信は、対象について何らの制限も残してはならない。主体的な確信は真の客観性に至らなければならない。
23:43 from Saezuri
§417
確信が真理に高まる段階は次の通りである。
a. 意識一般としてあること。こうしたものとして  は、対象は対象としてある。
b.自己意識、自己意識にとっては、「私」が対象で  ある。
23:43 from Saezuri
c.意識と自己意識との統一。精神は対象の内容を
  自分自身として、そして、自己の上にありかつ   自己に対して定められたものとして自分自身を   直観する。理性、精神の概念。



2011年9月28日水曜日

再び天上の花





二〇十一年九月二十八日(水) 晴れ

再び天上の花


山畑に行く途中、小学校の横を通りすぎた。秋の運動会に備えてのことか、民謡の花笠音頭をバックミュージックに、ちょうど児童たちが校庭で演舞の練習中だった。金網越しに子供たちのユーモラスな踊りぶりをしばらく眺めていた。

よく晴れていて美しい季節の昼前の一時で、時間に余裕があったので自転車で行く。 山に畑を作り始めて、もっとも不自由に感じることは、限られた時間の中で、気ままに方々を自転車で散策する時間が削られてしまうことだ。

前回来たときもすでに山辺には彼岸花のいくつかの咲きかけているのを見つけていたが、今日はさらに黄色く色づいた稲畑の畦のあちこちに、曼珠沙華が花の盛りを迎えたように咲いている。この秋になってはじめてコスモスの花の群生も見る。暑かった夏も過ぎ去り、もう秋が訪れに来る。               


曼珠沙華も毎年に約束を違えずに咲き迎えてくれる。確かに彼女らは人間を目的として咲いているのだ。同じ自然界の存在として、お互いにけして無縁ではない。とはいえ彼女らは一秋半月足らずの寿命だが、人間は生きているかぎりそのあでやかな姿を眺められる。昨年の秋はさほど印象に残っていない。秋の稲刈りを背景にはっきりとこの花の存在を自覚し、曼珠沙華という花の名のもともとの意味を知ったのは、もう五年も前になる。

山の中では、イチジクの木がサルどもの悪戯にあって、大切な枝を何本か折られていた。自然界の中にあって、植物と動物の共生はどうなっているのだろうか。サルくらいの高等動物になると、すでに人間のように、遊びや悪戯をしはじめていることがわかる。むろん人間もサルもその肉体的生存は自然との物質的な代謝なくしてありえない。

山を散策していると、苔の上に熟し柿が一つ落ちているのに気づいた。ほとんど傷もなく、手にとって皮を剥いてみると、熟したゼリー状の実が現れる。口に入れると甘い。見上げると幹の古い柿の木があって、手で触れると凹みそうなくらいに熟した柿が、ちょうど手の届くところの枝にぶら下がっていた。幸運を思いながら、もいで口に入れる。一昨年にようやく根付いた「私」の柿も、サルやシカの牙を免れて無事に実をつけるようになるのに、果たしてあと何年かかることだろう。

さわやかな気候だったので、スコップを一本もって、市街地を見晴るかすことのできる所まで上る。お気に入りのいつもの場所だ。そこからの眺望を写真と動画に収めておく。今年は暇もなくイチジクの実はあきらめて、サルどもにほとんど呉れてやった。来年はもう少ししっかりと対策を施すつもりだ。




2011年9月12日月曜日

2011年中秋の明月

2011年仲秋の明月










今年の中秋の明月。今年も私のかぐや姫たちを思い出しながら眺める。





下は軒先に一斉にうれしげに咲いていた水仙。

































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