2011年10月2日日曜日

10月1日(土)のツイッター

13:48 from web
前回§50の欲望のあたりまで進みかけたが、今一度立ち戻って、意識と自己意識の関連について確認しておきたい。意識→自己意識→欲望→相互承認という、意識の進展、あるいは精神の進展を展望しながらも、意識一般の概念について立ち戻って、その詳細を見ておきたい。
13:57 from web
§42 感性的意識
意識はさしあたり直接的な意識である。だから、対象に対する意識の関係は、単純な媒介されない、対象についての確実性である。それゆえ、対象自身も同様に、直接的な対象として、存在し、自己内に反省している対象として規定される。それはさらに、個別的なものと規定されている。
19:51 from Saezuri
自我自身は単に形式的な同一性として存在するに過ぎないから、概念の弁証法的な運動は、すなわち、意識の進行は、自我にとっては自分の活動として存在するのではなくて、本来的にあるものであり、意識にとっては対象の変化として現れる。§39
19:57 from Saezuri
「私」、すなわち意識の主体は思考である。対象の在り方における論理的な進行は、主体と客体とにおいて同一のものであり、主体と客体との絶対的な関係であり、客体をも主体自身のものたらしめるものである。い (ibid§39 )
20:04 from Saezuri
カント哲学はラインホルドによって、表象能力という名の下で、意識の理論として把握されたということは、カント哲学の正当な意義を捉えたものと見るべきである。なぜなら、カント哲学は、「私」を、彼岸に横たわっているもの、すなわち、物自体に対する関係として考察する。 (ibid補注   )
20:15 from Saezuri
フィヒテ哲学もカントと同じように、非我はもっぱら「私」の対象として、意識によって規定されているに過ぎない。だから、非我はどこまでも到達できない無限の対象として、すなわち、物自体として残っている。この二つの哲学は、概念に、すなわち自己自身において存在する精神には理解が及ばない。39
20:29 from Saezuri
スピノザ哲学においては、精神は、自己を「私」として、どのように判断するかは自由な主体として構成する自己分割、判断、つまりA=Aが、精神の絶対的な在り方だと認めるがゆえに、哲学はスピノザ哲学から始まる。§39補注
21:17 from Saezuri
意識としての精神の目的は、自己の現象を自己の本質と一致させること、自分自身の確信を真理にまで高めることである。精神が意識の中にもつ実際存在は自己の有限性を意識の中にもっている。だから精神が自己と形式的に関係することは、たんなる確信に過ぎない。a
21:44 from Saezuri
なぜなら、客体は単に抽象的に精神自身のものと決められている過ぎず、あるいは、客体の中にあって精神は、ただ抽象的に自分のものとして決められている過ぎないか、あるいは、精神は意識の中で、自分自身の中で、抽象的な「私」として反映しているだけのものである。b
21:46 from web
だから、この実際存在はまだなんら自分自自身のものではない一個の内容でしかない。c
22:28 from Saezuri
単なる表象は確信と真理を区別しない。内容がつまらなく劣悪なものであっても、その表象が客体と一致する主観的なものでありさえすればいい。
22:28 from Saezuri
しかし、哲学においては真理の概念は本質的にたんなる確信にすぎないものから区別されなければならない。
22:31 from Saezuri
なぜなら、精神がたんなる意識の立場にあるところの自分自身についてもつところの確信は、非真理のもの、自分自身に矛盾するものである。というのも自分自身の許にあるという抽象的な確信のすぐ側で、ほとんど正反対の確信を、自分にとって本質的に自身に向かう他者として振る舞う確信を精神はもつ。
22:43 from Saezuri
この矛盾は解消されなければならない。§40
主体的な確信は、対象について何らの制限も残してはならない。主体的な確信は真の客観性に至らなければならない。
23:43 from Saezuri
§417
確信が真理に高まる段階は次の通りである。
a. 意識一般としてあること。こうしたものとして  は、対象は対象としてある。
b.自己意識、自己意識にとっては、「私」が対象で  ある。
23:43 from Saezuri
c.意識と自己意識との統一。精神は対象の内容を
  自分自身として、そして、自己の上にありかつ   自己に対して定められたものとして自分自身を   直観する。理性、精神の概念。



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