2014年3月14日金曜日

3月13日(木)のTW:奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』について



少し時間に余裕も出来はじめたので、以前に批判したことのある、元東大教授で憲法学者の奥平康弘氏の著書『「萬世一系」の研究』を読み始めた。以前に「憲法学者奥平康弘氏の伝統破壊的国家観について」goo.gl/EjjuFZ で批判したことがあるので、改めて読み直そうと思ったからである。以前に奥平康弘氏を批判したのは氏の『「萬世一系」の研究』を直接読んだ上での批判ではなかった から、何時の日か奥平氏の著書に直接目を通した上で批判する必要のあるのは当然のことだった。しかし、学者ならぬ私にはなかなかその時間もなく奥平氏の本 も読む余裕はなかった。

私が以前に奥平氏の『「萬世一系」の研究』を批判したのは、あるサイトにこの本の内容が纏められており、そこで奥平氏 の思想の概略を知り得たからだった。だから私のその批判は、著書自体を読破した上での批判ではなかった。奥平氏の著書『「萬世一系」の研究』の内容の概略 を纏めたサイトは、「◆ 奥平康弘 稿「『首相 靖国 参拝』に疑義あり」◆ 」と題されたサイト goo.gl/PxXZlQ で奥平氏の著書は「■奥平康弘『「萬世一系」の研究-「皇室典範的なるもの」への視座-』(岩波書店,2005年3月)は,「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」を(同書,382頁),訴えた著作である。」とまとめられていた。

それは 裴 富吉という朝鮮人の学者らしい人が開いておられるらしいホームページの中にあったものである。そこで「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主 義は共和制とむすびつくほかないこと」というように奥平氏の著書を、この裴 富吉という人が結論としてまとめられているのを読んだだけで、ツ イッターで批判したものである。

もちろん、裴 富吉という人の結論が本当に奥平氏の著書を正しく纏めたものであるかどうかも、本文そのものをまだ読んでも いない私には批判する資格もなかったのかもしれない。ただ「天皇制は民主主義とは両立しえないこと,民主主義は共和制とむすびつくほかないこと」 という奥平氏のこの結論のまとめを読んですぐに直観したことは、この結論はまぎれもなく「悟性的思考」の典型ではないか、ということだった。

そして、この 悟性的思考による「結論」に今では忘れられがちなフランス革命の否定的側面や、中国の文化大革命、ポルポト独裁政権によるクメール・ルージュ殺戮 事件、スターリンの強制収容所などに根底に存在する共通の論理を見いだせるように思えたからである。だから私のツイートでの批判は、「抽象的で破壊的な革 命的国家観の危険性」という




2013年3月28日木曜日

自然の観察

 


2013年平成25年3月27日(水)翳、小雨
 
先週の土曜日に仮植えしたままの二本の梅の苗木。何とか植え切ってしまおうと思い出掛けた。が、あいにく今日は空模様が怪しい。ネットで天気予報を確認したが昼過ぎから小雨になるという。

時折は日が差すけれど、空はどうしても翳りがち。やれるだけやってから帰ろうと作業を始めた。三時頃になって小雨が降り始めた。切り残した畑の篠の上にブルーシートを張って、その下で雨を凌いだ。ウグイスの澄んだ鳴き声が聞こえる。少しでも小降りになれば取り掛かろうと思ったけれど、土が濡れて掘り返せば泥になる。それを見て今日の作業はやむを得ず、霧雨になったのを見て山を降りる。

  梨の蕾
                                                         桃の木の蕾






2012年9月29日土曜日

不完全な立憲君主制

 

不完全な立憲君主制

九月二十九日の「朝まで生テレビ」に出演した池田信夫氏が氏のブログで、原子力発電の再稼働をめぐる議論(「原子力ムラの論理と心理」)の文脈のなかで、丸山眞男の論文を引用しながら、日本社会に特有の「無責任構造」について論じている。

丸山眞男は旧大日本帝国軍の否定的側面にのみ囚われて、軍人にいじめられた体験もあったのか、その「意義」にまで踏み込んで評価しうる主体的な思想的観点はつい に持ちえなかった。その点で池田信夫氏と異なって、丸山眞男を高くは評価しないのであるが、それはとにかく、池田氏が、様々な論考で日本がまともな「法治 国家」ではないことを指摘して国民にそれを多少なりとも自覚させつつあることは評価したい。

ただ、池田氏が、それらの論考のなかで「日本 教」とか「空気」といった言葉で、日本の法治国家としての「欠陥」もしくは「不完全」を指摘しているのは認めるとしても、これらの用語概念の曖昧さのため に、国家としてのこの「欠陥」はどうすれば是正できるかという肝心の課題についてはまともな提言をなしえていない。この点については今は亡き丸山眞男氏も 池田信夫氏も同じであるように思える。

憲法改正論議の前提としては、まず、「憲法の概念」から徹底的に考究して行かねばならないと思う。 その一例として「自然憲法(自然法憲法)」と「実定憲法」の違いを知り、戦後のGHQの統治下に制定された日本国憲法が「実定憲法」であることをおさえて おくなどの必要がある。

そして、改正憲法の核心としては、「君臨すれども統治せず」という立憲君主制の原則を明確に規定して、あらためて 「君主無答責」の立場をはっきりと新憲法上に規定するとともに、国家の最高責任指導者である内閣総理大臣に、国防の最高統帥権をきちんと帰属させなければ ならない。それとともに内閣総理大臣の元首と国民と国家に対してもつ責任規定を明確にしておく必要がある。

いずれにしても、池田信夫氏が この論考で「空気の構造」という曖昧な概念で捉えるだけでは国家統治における責任の所在問題の解決の糸口もつかめないのではないか。そうではなく、ま ず「法治国家とは何か」その「法治国家の概念」を明確にするとともに、その概念に照らしても「法治国家」としての現在の日本国の統治の欠陥が、根本的には 現行日本国憲法に由来するものであることを理解する必要がある。

さらにいえば歴史上憲法の概念を最も深く掘り下げたヘーゲルの『法の哲学』は、憲法論議に不可欠の前提であるべきだと思う。この前提を欠く憲法論議は論理的不完全性を免れないのではないか。

「が んらい国民の自意識の様式であり、国民の教養によって規定されるものであるとともに」(法の哲学§274)「決して「作られる」ものではない、一国民にお いて発展せしめられている限りの理念であり理性的なものについての意識である憲法」(法の哲学§272以下)を、新日本(帝)国憲法としてそれに客観的な 形式を与えるまでは、「日本社会の空気の構造」という無責任統治問題は解決されないのではないだろうか。

GHQによって「単に作られた」 現行の日本国憲法の欠陥を克服するためには、かって伊藤博文や井上毅らが日本書記や古事記などの神話から、さらに皇室典範などの不文律に至るまであらゆる 有識故実の歴史的な研究を通じて、大日本帝国憲法の制定を準備したように、新しい憲法制定作業には、日本国における伝統的「理性」の顕在化と自覚があらた めて不可欠な前提になるのではないだろうか。そうして、過去の東アジア戦争の敗北などの歴史的な反省と徹底した総括を踏まえて、明治期の大日本帝国憲法の意義と、とくに その「限界」を明らかにしてゆく必要もあるだろう。

今にして多くの識者、団体から新憲法草案が提案されているけれども、伝統的にしてかつ近現代にいたって確立した現在の日本国における「理性」と「理念」の発掘という作業と、その定式化という根本的な仕事はまだきわめて不十分であるように思われる。

いずれにしても、困難な挑戦ではあるが、国家の再建のためには不可欠にして緊急を要する全国民的な事業となるべきでしょう。

 

憲法義解

自然憲法と実定憲法

 

 

2012年9月27日木曜日

朝日新聞における文章修行


朝日新聞における文章修行

脳科学者の茂木健一郎氏が朝日新聞の文章批判をおこなっていることを、池田信夫氏のブログで 知りました。文章を書くうえで、「他山の石」とすべきかとも思い、記録しておきます。果たして朝日新聞の論考が本当に受験小論文の練習に参考になるので しょうか。論理的な文章、科学的な文章はどうあるべきかについて、さらに考えてゆきたいと思います。こうした記事が多くの人に読まれて、日本国民の国語 能力がより高まってゆくことを期待したいものです。

>><<引用

2012年9月27日(木)付  朝日新聞http://www.asahi.com/paper/column.html

天声人語

  3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」や ら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が 次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積 み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸 島や竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来にな る。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在 する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、 原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣や竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かり だと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。

>><<

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート

第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」
http://togetter.com/li/380308


連続ツイート第728回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、今朝読んだある文章について。
kenichiromogi 2012/09/27 09:12:17

kenichiromogi
てせ(1)英語のessayは、日本語の「随筆」とは似て非なるものである。前者は、例えばEconomist の文章に見られるように、evidenceに基づくcritical thinkingの結晶であり、科学論文にもつながる。後者は感性に基づく主観の文章であって、曖昧さの本質がある。
kenichiromogi 2012/09/27 09:14:31

kenichiromogi
てせ(2)もちろん、日本語の「随筆」にも美質がないわけではない。枕草子や、徒然草、漱石の「思い出す事など」は「随筆」の傑作であって、生きることの中で私たちが感じる心の揺れ、動きをとらえる。私自身も、「生きて死ぬ私」や「脳と仮想」などの随筆を書いてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:16:03

kenichiromogi
てせ(3)「随筆」の文体は、日本の一つの財産であるが、すべてのテーマを論じるのに適切ではない。例えば、政 治的課題については、evidenceとcritical thinkingに基づく英語のessayの文体で論じるのがふさわしい。ところが、日本では「随筆」で政治を論じてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:17:41

kenichiromogi
てせ(4)「随筆」の文体で政治を論じることの愚、悪影響、不幸を、今朝の天声人語(http://t.co /unbYa9Ox)を読んで改めて思う。安倍晋三さんが自民党総裁になられたことを論じているが、全体として意味不明。主観や曖昧さの羅列で、何を主張 しているのか一向に伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:19:18

kenichiromogi
てせ(5)思いついて朝刊紙面で添削してたら、紙面が真っ赤になった。まず、「党名を変える動き」から論じるこ とが適切だとは思わぬ。「和魂党」や「自由新党」が検討されたというが、どれくらいsignificantな動きだったのか。ニュースバリューを検討する バランス感覚がない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:20:40

kenichiromogi
てせ(6)「斜陽」という言葉で下野を論じているが、ナンセンス。そもそも、健全な議会制民主主義の下では野党 になるのは当たり前。必ずと言っていいほど、数年後には政権に返り咲く。実際、今の流れはそうなっている。「斜陽」という感性的、主観的表現は、政治プロ セスの本質にかすってもいない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:22:17

kenichiromogi
てせ(7)さらに、天声人語は、安倍氏の再登場を「なつメロ」と表現する。小学生でも考えつくような、陳腐な表 現だ。読者に提供されるべきは、再登場の背景分析だろう。さらに、「ナショナリズムの風に、うまく乗った」という表現は失礼だ。「うまく」という言葉に、 筆者の対象蔑視と低俗さが表れる。
kenichiromogi 2012/09/27 09:24:16

kenichiromogi
てせ(8)その後の文章も、感性に流され支離滅裂。「人心を逸らさぬ程度に」は、政治的プロセスを論じる表現と しては不適切である。あげくの果てが、結語の「たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい」。自分を何様だと思っているのか。何を安倍氏に期待して いるのか、全く伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:26:06

kenichiromogi
てせ(9)今朝の天声人語の筆者には、以上の失礼をお詫びするが、考えてみていただきたいのは、朝日新聞の一面 に載っている以上、天声人語には、公共性があるということである。この文体とスタンスが、日本の政治を語る時の精神風土を作る。その事の罪を、よくよく考 えていただきたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:27:25

kenichiromogi
てせ(10)テレビの政治討論番組でも、使われる言語が(特に政治評論家と呼ばれる方々において)感性的、情緒 的であることの責任の一端は、天声人語にあるのではないか。このようなスタイルで政治を論ずることの愚に、もうそろそろ朝日新聞、および天声人語の筆者は 気づいてほしい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:28:37

kenichiromogi
てせ(11)もちろん、天声人語にも、良い回はある。「花鳥風月」や「社会事象」を論じた回である。そのような 時には、文体と対象がはまる。天声人語は、もし今のまま継続するならば、政治を論じることをやめるか、あるいは政治を論じる時には硬質な文体で議論する、 第二の創業を目指してはどうか。
kenichiromogi 2012/09/27 09:30:18

kenichiromogi
てせ(12)「脳トレ」で天声人語を書き写すという動きがあるようだが、特に政治を論じた回については、今のま まではますます日本人の思考が情緒的かつ非論理的になるので、私は絶対反対である。再読、未読に耐えるような文章に、特に政治について書かれた天声人語は なっていない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:31:56

kenichiromogi
てせ(13)吉田兼好流の「随筆」ではなく、論理と証拠に基づく「essay」の伝統を、日本でも根付かせるし かない。新聞は、多くの読者が触れる公器として、日本の言論空間を前に進める社会的責務がある。新聞の顔である一面に、情緒的政治論を載せるのは、いい加 減やめて欲しい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:33:47

kenichiromogi
てせ(14)最後に。橋下徹氏のツイッターでの文章は、時に論敵への烈しい言葉などがあり十分に伝わっていない かもしれぬが、日本語で政治的事象を論ずるスタイルの一つのイノベーション。冷静に読めば、論理的に緻密な構成になっていることがわかる。政治の季節は、 ふさわしい言葉で語りたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:35:34

kenichiromogi
以上、連続ツイート第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」でした。

>><<終わり


茂木氏は12回目で「味読」(精読?)とすべきところを「未読」と転換ミスしているようなので、老婆心までに。

2012年9月26日水曜日

自然と人間

                                                                       [20120926%25C3%258Bab%255B4%255D.jpg] 

自然と人間

二〇一二年九月二十六日(晴)

山畑に行く。ようやくにして暑い夏も過ぎ去り、あぜ道のあちこちには彼岸花のつぼみも散見するようになった。すでに咲き出しているのもある。所々まだ刈り残された稲畑が残っている。

この国の自然は地球上の北緯35度前後あたりの温帯に属し、ユーラシア大陸の東縁に位置するところから来る温暖な気候風土が特色であるといわれる。アフリカにおけるような原色に充ちた植生も、ライオンや象、キリン、ワニなどの動物に見る荒々しい生命力の露出もなく、また、ロシアやアラスカのような厳しい冬もない。

今年の反日デモで中国人たちが「小日本」といつものように揶揄したように、たしかに国土も狭く、モンゴルのような大草原もなく、どこを見回しても箱庭のような山国である。

地理としては国土は、その東岸を太平洋と黒潮に洗われ、日の出は太平洋の遙か沖合の水平線の上に眺める。子午線の関係からも世界に先駆けて日は昇る。
国土面積は世界第六二番目ぐらいだそうで大きくはない。ただ、排他的経済水域と領土、領海を含めると世界第九位になるという。中国は第七位である。

先ごろその「大中国」がようやくにして、この国にしてはじめての空母「遼寧」を大連港で就航させたそうだ。「遼寧」と名付け、母港を東シナ海に面する遼寧省の大連港とすることにも中国の戦略的な意図を予想させる。

ウクライナから買った中古空母ワリヤーグを改造して作った「遼寧」であるが、完全な自前で航空母艦をつくるだけの余裕もないほどに戦略的にも急いだということだろう。

遼寧省の大連は、戦前の日本が深く経営に関わった縁のある旧満州の都市である。政変で失脚した薄熙来氏もかって市長をつとめたこともある。日系企業も多く進出している。日露戦争では遼東半島が戦争の舞台ともなった。

「小日本」は大国ロシアには辛うじて勝った。太平洋戦争に敗れたアメリカによって今は軍艦を建造することも禁じられているが、戦前にはすでに世界最大の戦艦「大和」を造った。「大中国」に先駆けて、1944年には世界最大の航空母艦「信濃」を造っている。アメリカの原子力空母「エンタープライズ」が1961年に登場するまでは、この空母「信濃」が史上最大の排水量を持つ空母だった。

「小日本」は必ずしも「小精神」とは言えないと思う。かって戦国時代の豊臣秀吉は大陸の明に攻め入ろうとしたこともあったし、織田信長などは、さらにもっと気宇壮大な精神をもっていたのではなかったか。いずれにせよ「大中国」も「小日本」も、銀河系の彼方から見れば、蟻とコオロギほどの違いもない。

山畑で土を耕していると、くわしくは種属もわからない様々の小動物との出会いがある。ミミズ、クモ、バッタ、沢カニ、カエルなど、マムシなどの蛇や鹿、猿などとも出会う。時間に余裕さえあればデジカメにでも記録できればいいと思うけれども。

小さなカエルが土の中から出てくるのを見ると、人間の生命もカエルの命も、本質的な差異は少しもないのだと思う。

コスモスやまだつぼみの曼珠沙華などは途中に見られたが、山のなかに入っても、萩やススキ、クズくらいしかまだ目に付かない。キキョウはとにかく、ナデシコもオミナエシもフジバカマもその姿を見ない。幼い頃の記憶の片隅にあるような秋の野山の風情に反復はない。

ハジカミショウガを思い出したように今頃になって収穫する。八丁味噌で味わおうと思う。遅れをとっていたニンジン、ダイコン、ブロッコリなど冬野菜の種もようやく植え終えた。昨年に蒔いた茶は何とか成長しているが、今年の紅茶の種は失敗した。ほとんど芽が出て来ない。

いつものことながらことながら、美しい青や赤の一ミリにも足りない小さな種から、ニンジンやカブの姿を現わすのは奇蹟としか思えない。この広大無辺の宇宙の神秘は私たちの存在を含めて想像を絶している。紅茶の畝を少し整備した後、毎年遠くから眺めていたコスモスの群生するところに近づいて、カメラにとった。 

2012年9月22日土曜日

自由と人権

 

自由と人権

「自由」と「人権」のかねあいの問題である。個人の人権が侵害されてはならないのは言うまでもないが、そのために言論などの「自由」が冒され、また制限されてよいか、あるいは、「言論の自由はどこまで認められるか」という問題がある。

基本的な考え方の前提としては、人間には「悪」をも犯す「権利」も保障されなければならないということである。なぜなら、ここにこそ「自由」の核心があり、人間の尊厳も本質もここにあるからである。人間の自由は「善悪」を知ること、意識できることと、その二者のいずれを選択するか、その自由にあるからである。人間は動物とは異なり、環境や必然性に完全に制約されるのではなく、少なくとも意識においては、完全に自由な存在であるということである。

ここで問題にすべきは、一般にいわゆる「人権」論者や「社会主義者」「共産主義者」たちが、彼らの妄想する「理想主義」を実現するためと称して、人間から「悪」をも犯すことさえ、強圧的に禁じようとする傾向があることである。

「無菌状態」の社会、「聖人君子」ばかり「善人」ばかりの社会をどう考えるか。

先に述べたような人間の本質から言って、実際には完全な「理想社会」はあり得ないのであるが、往々にして、「理想」を実現しようとして、かえって最悪の「現実」を招くことも多い。社会構成の構成原理として、人間性悪説か人間性善説のいずれの立場に立つか、ということである。いずれの人間観に立つかによって、構成原理は根本的に異なる。

とくにこの傾向は、プロレタリア独裁として、敵対するブルジョア階級の「搾取」の暴力的禁圧という現象に象徴的に現れている。かってのソ連邦などのいわゆる共産主義国家の実験によっても、その歴史的な帰結は、体験され証明されている。その浅薄な人間観と思想の現実がある。

「人権」と「自由」という二律背反することがらをどのように克服するか。「人権」と「自由」の価値を比較考量する時、どちらに根本的価値を認めるかによって、いわゆる人権法案などの制定問題にどのような立場を選択するか、が決まる。というよりも、自由こそが人間にとっての至高の人権であるから、「自由」は「人権」に優先する。「自由」を制限する法案は、必要最小限にとどめておかなければならない。

このたび民主党や自民党の一部の議員たちによって提出制定されようとしている、いわゆる「人権救済法案」については、このような理由から賛成できない。
我が国の人権状況については、現行法で「人権」は十分に守られうると考える。あらためて、「人権救済法案」などを法制化して、新たに行政組織をつくることは政府機構の簡素化に逆行するし、官僚公務員や人権団体関係者らの「利権化」にもつながりかねない。行政の肥大化と硬直化を招くことになる。国民の人権は、すでに現行法規によって十分に守ることができる。

民主党内閣は、人権救済法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙って閣議決定したそうである。民主党の情報隠蔽体質、陰謀体質は、自民党時代に輪をかけて悪質である。

>><<

【主張】人権救済法案 強引な閣議決定おかしい

2012.9.20  産経新聞社説 http://goo.gl/RPsjm

 野田佳彦政権は、新たな人権侵害や言論統制を招きかねないとの批判が出ていた人権侵害救済機関「人権委員会」を法務省外局として設置する法案を閣議決定した。

 今回の閣議決定は不可解な部分が少なくない。藤村修官房長官は「政府として人権擁護の問題に積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。次期国会提出を前提に、法案内容を確認する閣議決定だ」と強調した。

 だが、国会提出時には再度、閣議決定を経る必要がある。人権救済法成立に前のめりな党内グループに過度に配慮しただけではないのか。同法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙った節もあり、疑念がつきまとう。

 人権委員会は政府から独立した「三条委員会」で、公正取引委員会と同様の強大な権限を持つ。調査の結果、人権侵害と認められると告発や調停、仲裁などの措置が取られる。
 最大の問題は、人権侵害の定義が相変わらず曖昧なことだ。「特定の者」の「人権」を「侵害する行為」で憲法違反や違法行為を対象とするというが、 これでは何も定義していないに等しい。恣意(しい)的な解釈を許し、言論統制や萎縮、密告による新たな人権侵害を招きかねない。

 こうした法案への疑念や危惧、抵抗感は国民は無論、与党や閣内にも根強い。にもかかわらず、いま行われている民主党代表選、自民党総裁選で、この問題が問われていないのは重大な欠落だ。

 閣議決定に対し、自民党の林芳正政調会長代理は「なぜ、この時期なのか」と政府の意図に疑問を投げた。安倍晋三元首相も法案に対し「大切な言論の自由の弾圧につながる」と指摘した。石破茂前政調会長は以前、法案に反対としながらも、救済組織の必要性は認めていた。

 政府・与党は先の通常国会終盤にも法案提出に意欲を示したが、批判を受けて見送ったばかりだ。国論が二分している法案を閣議決定して既成事実化するやり方は、到底適切な手続きといえない。

 自民党内にも人権法案に前向きな意見もあるが、言論統制とは無縁の自由な社会を維持するために果たしてこの種の法案が必要なのか。民主、自民両党首選の立候補者は少なくともこの問題への立場を鮮明にし、国民的な議論を積み重ねてもらいたい。

© 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

橋下 徹氏の「日本維新の会」について


橋下 徹氏の「日本維新の会」について

素人集団で、まだ海の物とも山の物ともつかない人たちの「政治団体」、「日本維新の会」である。現在のトップ、橋下 徹氏が、さらに一回りもふた回りも脱皮して、大きく成長することなくして、この政治運動は中途で挫折する可能性は大きい。が、それにもかかわらず、橋下氏の「日本維新の会」に政治改革の夢を託さなければならないというのは、それだけ日本国民の既成政党やその利権政治に対する絶望が深い、ということなのだろう。

それであっても、既成政党が、企業・団体の献金を受け取らないと言って口先だけでは唱えながら、国民を欺くばかりで、実行する力もない自民党や民主党に比べれば、日本維新の会が、企業、団体からの献金禁止を規約に定めたことの意義は大きい。

民主党の政権交代についても、この政党が自民党よりも統治能力、政権担当能力が高いからと信じて国民は政権交代を選んだのでは決してない。お粗末な二世政治家の集団に堕した自民党への懲罰のために、国民はやむを得ずこの選択をしたのである。

しかし、いずれにしても国民の教育が改革され、真に能力の高い政治家が雨後の竹の子のように輩出してくるのでなければ、真に政治改革は実現されない。能力、能力、能力、能力がすべてである。

橋下徹氏の政治改革への意欲は買うし、その綱領にかいま見る理想は尊重するけれども、その実現のための具体的な現実的行程との摺り合わせがあまりにも不十分なままの出航である。このままではいずれにしても、官僚たちの復権とアンシャンレジュームの三度の復活になり終わる可能性が高い。

そうならないためには、この新しい政治集団「日本維新の会」に卓越したエリートたちをどれだけ結集できるかに掛かっており、そこにはそれこそ、国家国民の資質、力量が問われている。だがその現状を見る限り、悲観的にならざるをえない。この集団もまたもや選挙利権の談合集団になり終わる可能性は高い。

そうならないためには、指導者、トップである橋下 徹氏の理念と手腕にすべて掛かっているわけだが、戦後民主主義教育の申し子である橋下 徹氏にそれを期待するのは、当てはずれではないか、という思いも強い。そうでないことが心からの願いではあるけれども。さもなければ、日本の復活はさらに遠のく。


>><<

企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏(時事通信) - goo ニュース
企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏

時事通信2012年9月19日(水)21:40

大阪市の橋下徹市長は19日、近く結成する国政新党「日本維新の会」について、「個人献金型の政党を目指す」と述べ、企業・団体献金の受け取り禁止を党の規約で明記する方針を明らかにした。市役所内で記者団の質問に答えた。

橋下氏は、政党への献金を個人に限ることについて「こうするだけで政治は劇的に変わる」と指摘。その上で、「絶対に自民党や民主党ではできないことだ。新 しい政治のスタイルを目指していく」と強調し、既存政党との違いをアピールした。ただ、政治資金パーティー券の企業・団体への販売は容認するという。

これに関連し、橋下氏は「個人献金だけでは(党運営に必要な)お金が集まらないから、そこは特定の団体から色の付いたお金をもらうのではなく、政党交付金という形で(国が)政党を支援する。この仕組みは絶対に必要だ」と語った。

日本維新の綱領となる基本政策集「維新八策」では、政党への企業・団体献金の禁止を掲げている。