2011年9月28日水曜日

再び天上の花





二〇十一年九月二十八日(水) 晴れ

再び天上の花


山畑に行く途中、小学校の横を通りすぎた。秋の運動会に備えてのことか、民謡の花笠音頭をバックミュージックに、ちょうど児童たちが校庭で演舞の練習中だった。金網越しに子供たちのユーモラスな踊りぶりをしばらく眺めていた。

よく晴れていて美しい季節の昼前の一時で、時間に余裕があったので自転車で行く。 山に畑を作り始めて、もっとも不自由に感じることは、限られた時間の中で、気ままに方々を自転車で散策する時間が削られてしまうことだ。

前回来たときもすでに山辺には彼岸花のいくつかの咲きかけているのを見つけていたが、今日はさらに黄色く色づいた稲畑の畦のあちこちに、曼珠沙華が花の盛りを迎えたように咲いている。この秋になってはじめてコスモスの花の群生も見る。暑かった夏も過ぎ去り、もう秋が訪れに来る。               


曼珠沙華も毎年に約束を違えずに咲き迎えてくれる。確かに彼女らは人間を目的として咲いているのだ。同じ自然界の存在として、お互いにけして無縁ではない。とはいえ彼女らは一秋半月足らずの寿命だが、人間は生きているかぎりそのあでやかな姿を眺められる。昨年の秋はさほど印象に残っていない。秋の稲刈りを背景にはっきりとこの花の存在を自覚し、曼珠沙華という花の名のもともとの意味を知ったのは、もう五年も前になる。

山の中では、イチジクの木がサルどもの悪戯にあって、大切な枝を何本か折られていた。自然界の中にあって、植物と動物の共生はどうなっているのだろうか。サルくらいの高等動物になると、すでに人間のように、遊びや悪戯をしはじめていることがわかる。むろん人間もサルもその肉体的生存は自然との物質的な代謝なくしてありえない。

山を散策していると、苔の上に熟し柿が一つ落ちているのに気づいた。ほとんど傷もなく、手にとって皮を剥いてみると、熟したゼリー状の実が現れる。口に入れると甘い。見上げると幹の古い柿の木があって、手で触れると凹みそうなくらいに熟した柿が、ちょうど手の届くところの枝にぶら下がっていた。幸運を思いながら、もいで口に入れる。一昨年にようやく根付いた「私」の柿も、サルやシカの牙を免れて無事に実をつけるようになるのに、果たしてあと何年かかることだろう。

さわやかな気候だったので、スコップを一本もって、市街地を見晴るかすことのできる所まで上る。お気に入りのいつもの場所だ。そこからの眺望を写真と動画に収めておく。今年は暇もなくイチジクの実はあきらめて、サルどもにほとんど呉れてやった。来年はもう少ししっかりと対策を施すつもりだ。




0 件のコメント: