「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)
年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html
映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。
この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。
それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。
ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。
それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。
ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。
近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。
地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。
人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。
年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html
映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。
この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。
それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。
古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。
ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。
それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。
ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。
近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。
地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。
人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。
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