2012年9月29日土曜日

不完全な立憲君主制

 

不完全な立憲君主制

九月二十九日の「朝まで生テレビ」に出演した池田信夫氏が氏のブログで、原子力発電の再稼働をめぐる議論(「原子力ムラの論理と心理」)の文脈のなかで、丸山眞男の論文を引用しながら、日本社会に特有の「無責任構造」について論じている。

丸山眞男は旧大日本帝国軍の否定的側面にのみ囚われて、軍人にいじめられた体験もあったのか、その「意義」にまで踏み込んで評価しうる主体的な思想的観点はつい に持ちえなかった。その点で池田信夫氏と異なって、丸山眞男を高くは評価しないのであるが、それはとにかく、池田氏が、様々な論考で日本がまともな「法治 国家」ではないことを指摘して国民にそれを多少なりとも自覚させつつあることは評価したい。

ただ、池田氏が、それらの論考のなかで「日本 教」とか「空気」といった言葉で、日本の法治国家としての「欠陥」もしくは「不完全」を指摘しているのは認めるとしても、これらの用語概念の曖昧さのため に、国家としてのこの「欠陥」はどうすれば是正できるかという肝心の課題についてはまともな提言をなしえていない。この点については今は亡き丸山眞男氏も 池田信夫氏も同じであるように思える。

憲法改正論議の前提としては、まず、「憲法の概念」から徹底的に考究して行かねばならないと思う。 その一例として「自然憲法(自然法憲法)」と「実定憲法」の違いを知り、戦後のGHQの統治下に制定された日本国憲法が「実定憲法」であることをおさえて おくなどの必要がある。

そして、改正憲法の核心としては、「君臨すれども統治せず」という立憲君主制の原則を明確に規定して、あらためて 「君主無答責」の立場をはっきりと新憲法上に規定するとともに、国家の最高責任指導者である内閣総理大臣に、国防の最高統帥権をきちんと帰属させなければ ならない。それとともに内閣総理大臣の元首と国民と国家に対してもつ責任規定を明確にしておく必要がある。

いずれにしても、池田信夫氏が この論考で「空気の構造」という曖昧な概念で捉えるだけでは国家統治における責任の所在問題の解決の糸口もつかめないのではないか。そうではなく、ま ず「法治国家とは何か」その「法治国家の概念」を明確にするとともに、その概念に照らしても「法治国家」としての現在の日本国の統治の欠陥が、根本的には 現行日本国憲法に由来するものであることを理解する必要がある。

さらにいえば歴史上憲法の概念を最も深く掘り下げたヘーゲルの『法の哲学』は、憲法論議に不可欠の前提であるべきだと思う。この前提を欠く憲法論議は論理的不完全性を免れないのではないか。

「が んらい国民の自意識の様式であり、国民の教養によって規定されるものであるとともに」(法の哲学§274)「決して「作られる」ものではない、一国民にお いて発展せしめられている限りの理念であり理性的なものについての意識である憲法」(法の哲学§272以下)を、新日本(帝)国憲法としてそれに客観的な 形式を与えるまでは、「日本社会の空気の構造」という無責任統治問題は解決されないのではないだろうか。

GHQによって「単に作られた」 現行の日本国憲法の欠陥を克服するためには、かって伊藤博文や井上毅らが日本書記や古事記などの神話から、さらに皇室典範などの不文律に至るまであらゆる 有識故実の歴史的な研究を通じて、大日本帝国憲法の制定を準備したように、新しい憲法制定作業には、日本国における伝統的「理性」の顕在化と自覚があらた めて不可欠な前提になるのではないだろうか。そうして、過去の東アジア戦争の敗北などの歴史的な反省と徹底した総括を踏まえて、明治期の大日本帝国憲法の意義と、とくに その「限界」を明らかにしてゆく必要もあるだろう。

今にして多くの識者、団体から新憲法草案が提案されているけれども、伝統的にしてかつ近現代にいたって確立した現在の日本国における「理性」と「理念」の発掘という作業と、その定式化という根本的な仕事はまだきわめて不十分であるように思われる。

いずれにしても、困難な挑戦ではあるが、国家の再建のためには不可欠にして緊急を要する全国民的な事業となるべきでしょう。

 

憲法義解

自然憲法と実定憲法

 

 

2012年9月27日木曜日

朝日新聞における文章修行


朝日新聞における文章修行

脳科学者の茂木健一郎氏が朝日新聞の文章批判をおこなっていることを、池田信夫氏のブログで 知りました。文章を書くうえで、「他山の石」とすべきかとも思い、記録しておきます。果たして朝日新聞の論考が本当に受験小論文の練習に参考になるので しょうか。論理的な文章、科学的な文章はどうあるべきかについて、さらに考えてゆきたいと思います。こうした記事が多くの人に読まれて、日本国民の国語 能力がより高まってゆくことを期待したいものです。

>><<引用

2012年9月27日(木)付  朝日新聞http://www.asahi.com/paper/column.html

天声人語

  3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」や ら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が 次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積 み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸 島や竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来にな る。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在 する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、 原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣や竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かり だと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。

>><<

茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート

第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」
http://togetter.com/li/380308


連続ツイート第728回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、今朝読んだある文章について。
kenichiromogi 2012/09/27 09:12:17

kenichiromogi
てせ(1)英語のessayは、日本語の「随筆」とは似て非なるものである。前者は、例えばEconomist の文章に見られるように、evidenceに基づくcritical thinkingの結晶であり、科学論文にもつながる。後者は感性に基づく主観の文章であって、曖昧さの本質がある。
kenichiromogi 2012/09/27 09:14:31

kenichiromogi
てせ(2)もちろん、日本語の「随筆」にも美質がないわけではない。枕草子や、徒然草、漱石の「思い出す事など」は「随筆」の傑作であって、生きることの中で私たちが感じる心の揺れ、動きをとらえる。私自身も、「生きて死ぬ私」や「脳と仮想」などの随筆を書いてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:16:03

kenichiromogi
てせ(3)「随筆」の文体は、日本の一つの財産であるが、すべてのテーマを論じるのに適切ではない。例えば、政 治的課題については、evidenceとcritical thinkingに基づく英語のessayの文体で論じるのがふさわしい。ところが、日本では「随筆」で政治を論じてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:17:41

kenichiromogi
てせ(4)「随筆」の文体で政治を論じることの愚、悪影響、不幸を、今朝の天声人語(http://t.co /unbYa9Ox)を読んで改めて思う。安倍晋三さんが自民党総裁になられたことを論じているが、全体として意味不明。主観や曖昧さの羅列で、何を主張 しているのか一向に伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:19:18

kenichiromogi
てせ(5)思いついて朝刊紙面で添削してたら、紙面が真っ赤になった。まず、「党名を変える動き」から論じるこ とが適切だとは思わぬ。「和魂党」や「自由新党」が検討されたというが、どれくらいsignificantな動きだったのか。ニュースバリューを検討する バランス感覚がない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:20:40

kenichiromogi
てせ(6)「斜陽」という言葉で下野を論じているが、ナンセンス。そもそも、健全な議会制民主主義の下では野党 になるのは当たり前。必ずと言っていいほど、数年後には政権に返り咲く。実際、今の流れはそうなっている。「斜陽」という感性的、主観的表現は、政治プロ セスの本質にかすってもいない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:22:17

kenichiromogi
てせ(7)さらに、天声人語は、安倍氏の再登場を「なつメロ」と表現する。小学生でも考えつくような、陳腐な表 現だ。読者に提供されるべきは、再登場の背景分析だろう。さらに、「ナショナリズムの風に、うまく乗った」という表現は失礼だ。「うまく」という言葉に、 筆者の対象蔑視と低俗さが表れる。
kenichiromogi 2012/09/27 09:24:16

kenichiromogi
てせ(8)その後の文章も、感性に流され支離滅裂。「人心を逸らさぬ程度に」は、政治的プロセスを論じる表現と しては不適切である。あげくの果てが、結語の「たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい」。自分を何様だと思っているのか。何を安倍氏に期待して いるのか、全く伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:26:06

kenichiromogi
てせ(9)今朝の天声人語の筆者には、以上の失礼をお詫びするが、考えてみていただきたいのは、朝日新聞の一面 に載っている以上、天声人語には、公共性があるということである。この文体とスタンスが、日本の政治を語る時の精神風土を作る。その事の罪を、よくよく考 えていただきたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:27:25

kenichiromogi
てせ(10)テレビの政治討論番組でも、使われる言語が(特に政治評論家と呼ばれる方々において)感性的、情緒 的であることの責任の一端は、天声人語にあるのではないか。このようなスタイルで政治を論ずることの愚に、もうそろそろ朝日新聞、および天声人語の筆者は 気づいてほしい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:28:37

kenichiromogi
てせ(11)もちろん、天声人語にも、良い回はある。「花鳥風月」や「社会事象」を論じた回である。そのような 時には、文体と対象がはまる。天声人語は、もし今のまま継続するならば、政治を論じることをやめるか、あるいは政治を論じる時には硬質な文体で議論する、 第二の創業を目指してはどうか。
kenichiromogi 2012/09/27 09:30:18

kenichiromogi
てせ(12)「脳トレ」で天声人語を書き写すという動きがあるようだが、特に政治を論じた回については、今のま まではますます日本人の思考が情緒的かつ非論理的になるので、私は絶対反対である。再読、未読に耐えるような文章に、特に政治について書かれた天声人語は なっていない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:31:56

kenichiromogi
てせ(13)吉田兼好流の「随筆」ではなく、論理と証拠に基づく「essay」の伝統を、日本でも根付かせるし かない。新聞は、多くの読者が触れる公器として、日本の言論空間を前に進める社会的責務がある。新聞の顔である一面に、情緒的政治論を載せるのは、いい加 減やめて欲しい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:33:47

kenichiromogi
てせ(14)最後に。橋下徹氏のツイッターでの文章は、時に論敵への烈しい言葉などがあり十分に伝わっていない かもしれぬが、日本語で政治的事象を論ずるスタイルの一つのイノベーション。冷静に読めば、論理的に緻密な構成になっていることがわかる。政治の季節は、 ふさわしい言葉で語りたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:35:34

kenichiromogi
以上、連続ツイート第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」でした。

>><<終わり


茂木氏は12回目で「味読」(精読?)とすべきところを「未読」と転換ミスしているようなので、老婆心までに。

2012年9月26日水曜日

自然と人間

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自然と人間

二〇一二年九月二十六日(晴)

山畑に行く。ようやくにして暑い夏も過ぎ去り、あぜ道のあちこちには彼岸花のつぼみも散見するようになった。すでに咲き出しているのもある。所々まだ刈り残された稲畑が残っている。

この国の自然は地球上の北緯35度前後あたりの温帯に属し、ユーラシア大陸の東縁に位置するところから来る温暖な気候風土が特色であるといわれる。アフリカにおけるような原色に充ちた植生も、ライオンや象、キリン、ワニなどの動物に見る荒々しい生命力の露出もなく、また、ロシアやアラスカのような厳しい冬もない。

今年の反日デモで中国人たちが「小日本」といつものように揶揄したように、たしかに国土も狭く、モンゴルのような大草原もなく、どこを見回しても箱庭のような山国である。

地理としては国土は、その東岸を太平洋と黒潮に洗われ、日の出は太平洋の遙か沖合の水平線の上に眺める。子午線の関係からも世界に先駆けて日は昇る。
国土面積は世界第六二番目ぐらいだそうで大きくはない。ただ、排他的経済水域と領土、領海を含めると世界第九位になるという。中国は第七位である。

先ごろその「大中国」がようやくにして、この国にしてはじめての空母「遼寧」を大連港で就航させたそうだ。「遼寧」と名付け、母港を東シナ海に面する遼寧省の大連港とすることにも中国の戦略的な意図を予想させる。

ウクライナから買った中古空母ワリヤーグを改造して作った「遼寧」であるが、完全な自前で航空母艦をつくるだけの余裕もないほどに戦略的にも急いだということだろう。

遼寧省の大連は、戦前の日本が深く経営に関わった縁のある旧満州の都市である。政変で失脚した薄熙来氏もかって市長をつとめたこともある。日系企業も多く進出している。日露戦争では遼東半島が戦争の舞台ともなった。

「小日本」は大国ロシアには辛うじて勝った。太平洋戦争に敗れたアメリカによって今は軍艦を建造することも禁じられているが、戦前にはすでに世界最大の戦艦「大和」を造った。「大中国」に先駆けて、1944年には世界最大の航空母艦「信濃」を造っている。アメリカの原子力空母「エンタープライズ」が1961年に登場するまでは、この空母「信濃」が史上最大の排水量を持つ空母だった。

「小日本」は必ずしも「小精神」とは言えないと思う。かって戦国時代の豊臣秀吉は大陸の明に攻め入ろうとしたこともあったし、織田信長などは、さらにもっと気宇壮大な精神をもっていたのではなかったか。いずれにせよ「大中国」も「小日本」も、銀河系の彼方から見れば、蟻とコオロギほどの違いもない。

山畑で土を耕していると、くわしくは種属もわからない様々の小動物との出会いがある。ミミズ、クモ、バッタ、沢カニ、カエルなど、マムシなどの蛇や鹿、猿などとも出会う。時間に余裕さえあればデジカメにでも記録できればいいと思うけれども。

小さなカエルが土の中から出てくるのを見ると、人間の生命もカエルの命も、本質的な差異は少しもないのだと思う。

コスモスやまだつぼみの曼珠沙華などは途中に見られたが、山のなかに入っても、萩やススキ、クズくらいしかまだ目に付かない。キキョウはとにかく、ナデシコもオミナエシもフジバカマもその姿を見ない。幼い頃の記憶の片隅にあるような秋の野山の風情に反復はない。

ハジカミショウガを思い出したように今頃になって収穫する。八丁味噌で味わおうと思う。遅れをとっていたニンジン、ダイコン、ブロッコリなど冬野菜の種もようやく植え終えた。昨年に蒔いた茶は何とか成長しているが、今年の紅茶の種は失敗した。ほとんど芽が出て来ない。

いつものことながらことながら、美しい青や赤の一ミリにも足りない小さな種から、ニンジンやカブの姿を現わすのは奇蹟としか思えない。この広大無辺の宇宙の神秘は私たちの存在を含めて想像を絶している。紅茶の畝を少し整備した後、毎年遠くから眺めていたコスモスの群生するところに近づいて、カメラにとった。 

2012年9月22日土曜日

自由と人権

 

自由と人権

「自由」と「人権」のかねあいの問題である。個人の人権が侵害されてはならないのは言うまでもないが、そのために言論などの「自由」が冒され、また制限されてよいか、あるいは、「言論の自由はどこまで認められるか」という問題がある。

基本的な考え方の前提としては、人間には「悪」をも犯す「権利」も保障されなければならないということである。なぜなら、ここにこそ「自由」の核心があり、人間の尊厳も本質もここにあるからである。人間の自由は「善悪」を知ること、意識できることと、その二者のいずれを選択するか、その自由にあるからである。人間は動物とは異なり、環境や必然性に完全に制約されるのではなく、少なくとも意識においては、完全に自由な存在であるということである。

ここで問題にすべきは、一般にいわゆる「人権」論者や「社会主義者」「共産主義者」たちが、彼らの妄想する「理想主義」を実現するためと称して、人間から「悪」をも犯すことさえ、強圧的に禁じようとする傾向があることである。

「無菌状態」の社会、「聖人君子」ばかり「善人」ばかりの社会をどう考えるか。

先に述べたような人間の本質から言って、実際には完全な「理想社会」はあり得ないのであるが、往々にして、「理想」を実現しようとして、かえって最悪の「現実」を招くことも多い。社会構成の構成原理として、人間性悪説か人間性善説のいずれの立場に立つか、ということである。いずれの人間観に立つかによって、構成原理は根本的に異なる。

とくにこの傾向は、プロレタリア独裁として、敵対するブルジョア階級の「搾取」の暴力的禁圧という現象に象徴的に現れている。かってのソ連邦などのいわゆる共産主義国家の実験によっても、その歴史的な帰結は、体験され証明されている。その浅薄な人間観と思想の現実がある。

「人権」と「自由」という二律背反することがらをどのように克服するか。「人権」と「自由」の価値を比較考量する時、どちらに根本的価値を認めるかによって、いわゆる人権法案などの制定問題にどのような立場を選択するか、が決まる。というよりも、自由こそが人間にとっての至高の人権であるから、「自由」は「人権」に優先する。「自由」を制限する法案は、必要最小限にとどめておかなければならない。

このたび民主党や自民党の一部の議員たちによって提出制定されようとしている、いわゆる「人権救済法案」については、このような理由から賛成できない。
我が国の人権状況については、現行法で「人権」は十分に守られうると考える。あらためて、「人権救済法案」などを法制化して、新たに行政組織をつくることは政府機構の簡素化に逆行するし、官僚公務員や人権団体関係者らの「利権化」にもつながりかねない。行政の肥大化と硬直化を招くことになる。国民の人権は、すでに現行法規によって十分に守ることができる。

民主党内閣は、人権救済法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙って閣議決定したそうである。民主党の情報隠蔽体質、陰謀体質は、自民党時代に輪をかけて悪質である。

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【主張】人権救済法案 強引な閣議決定おかしい

2012.9.20  産経新聞社説 http://goo.gl/RPsjm

 野田佳彦政権は、新たな人権侵害や言論統制を招きかねないとの批判が出ていた人権侵害救済機関「人権委員会」を法務省外局として設置する法案を閣議決定した。

 今回の閣議決定は不可解な部分が少なくない。藤村修官房長官は「政府として人権擁護の問題に積極的に取り組む姿勢を示す必要がある。次期国会提出を前提に、法案内容を確認する閣議決定だ」と強調した。

 だが、国会提出時には再度、閣議決定を経る必要がある。人権救済法成立に前のめりな党内グループに過度に配慮しただけではないのか。同法案に慎重な松原仁国家公安委員長の外遊中を狙った節もあり、疑念がつきまとう。

 人権委員会は政府から独立した「三条委員会」で、公正取引委員会と同様の強大な権限を持つ。調査の結果、人権侵害と認められると告発や調停、仲裁などの措置が取られる。
 最大の問題は、人権侵害の定義が相変わらず曖昧なことだ。「特定の者」の「人権」を「侵害する行為」で憲法違反や違法行為を対象とするというが、 これでは何も定義していないに等しい。恣意(しい)的な解釈を許し、言論統制や萎縮、密告による新たな人権侵害を招きかねない。

 こうした法案への疑念や危惧、抵抗感は国民は無論、与党や閣内にも根強い。にもかかわらず、いま行われている民主党代表選、自民党総裁選で、この問題が問われていないのは重大な欠落だ。

 閣議決定に対し、自民党の林芳正政調会長代理は「なぜ、この時期なのか」と政府の意図に疑問を投げた。安倍晋三元首相も法案に対し「大切な言論の自由の弾圧につながる」と指摘した。石破茂前政調会長は以前、法案に反対としながらも、救済組織の必要性は認めていた。

 政府・与党は先の通常国会終盤にも法案提出に意欲を示したが、批判を受けて見送ったばかりだ。国論が二分している法案を閣議決定して既成事実化するやり方は、到底適切な手続きといえない。

 自民党内にも人権法案に前向きな意見もあるが、言論統制とは無縁の自由な社会を維持するために果たしてこの種の法案が必要なのか。民主、自民両党首選の立候補者は少なくともこの問題への立場を鮮明にし、国民的な議論を積み重ねてもらいたい。

© 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

橋下 徹氏の「日本維新の会」について


橋下 徹氏の「日本維新の会」について

素人集団で、まだ海の物とも山の物ともつかない人たちの「政治団体」、「日本維新の会」である。現在のトップ、橋下 徹氏が、さらに一回りもふた回りも脱皮して、大きく成長することなくして、この政治運動は中途で挫折する可能性は大きい。が、それにもかかわらず、橋下氏の「日本維新の会」に政治改革の夢を託さなければならないというのは、それだけ日本国民の既成政党やその利権政治に対する絶望が深い、ということなのだろう。

それであっても、既成政党が、企業・団体の献金を受け取らないと言って口先だけでは唱えながら、国民を欺くばかりで、実行する力もない自民党や民主党に比べれば、日本維新の会が、企業、団体からの献金禁止を規約に定めたことの意義は大きい。

民主党の政権交代についても、この政党が自民党よりも統治能力、政権担当能力が高いからと信じて国民は政権交代を選んだのでは決してない。お粗末な二世政治家の集団に堕した自民党への懲罰のために、国民はやむを得ずこの選択をしたのである。

しかし、いずれにしても国民の教育が改革され、真に能力の高い政治家が雨後の竹の子のように輩出してくるのでなければ、真に政治改革は実現されない。能力、能力、能力、能力がすべてである。

橋下徹氏の政治改革への意欲は買うし、その綱領にかいま見る理想は尊重するけれども、その実現のための具体的な現実的行程との摺り合わせがあまりにも不十分なままの出航である。このままではいずれにしても、官僚たちの復権とアンシャンレジュームの三度の復活になり終わる可能性が高い。

そうならないためには、この新しい政治集団「日本維新の会」に卓越したエリートたちをどれだけ結集できるかに掛かっており、そこにはそれこそ、国家国民の資質、力量が問われている。だがその現状を見る限り、悲観的にならざるをえない。この集団もまたもや選挙利権の談合集団になり終わる可能性は高い。

そうならないためには、指導者、トップである橋下 徹氏の理念と手腕にすべて掛かっているわけだが、戦後民主主義教育の申し子である橋下 徹氏にそれを期待するのは、当てはずれではないか、という思いも強い。そうでないことが心からの願いではあるけれども。さもなければ、日本の復活はさらに遠のく。


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企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏(時事通信) - goo ニュース
企業・団体献金受け取らず=日本維新、規約に明記―橋下氏

時事通信2012年9月19日(水)21:40

大阪市の橋下徹市長は19日、近く結成する国政新党「日本維新の会」について、「個人献金型の政党を目指す」と述べ、企業・団体献金の受け取り禁止を党の規約で明記する方針を明らかにした。市役所内で記者団の質問に答えた。

橋下氏は、政党への献金を個人に限ることについて「こうするだけで政治は劇的に変わる」と指摘。その上で、「絶対に自民党や民主党ではできないことだ。新 しい政治のスタイルを目指していく」と強調し、既存政党との違いをアピールした。ただ、政治資金パーティー券の企業・団体への販売は容認するという。

これに関連し、橋下氏は「個人献金だけでは(党運営に必要な)お金が集まらないから、そこは特定の団体から色の付いたお金をもらうのではなく、政党交付金という形で(国が)政党を支援する。この仕組みは絶対に必要だ」と語った。

日本維新の綱領となる基本政策集「維新八策」では、政党への企業・団体献金の禁止を掲げている。 

2012年9月19日水曜日

若い世代と明治国家の回復


若い世代と明治国家の回復


中国の次期指導者として習近平氏が予想されている。太子党の一人とも言われ、江沢民、李鵬らのもっとも強硬で憎悪と復讐心に満ちた対日歴史観を受け継いでいることも考えられる。氏がどのような対日観をもっているかが問題である。習近平が、尖閣諸島の日本の国有化を「茶番」と評していることからもわかるように、現在の胡錦濤主席以上に対日強硬策に出てくることは予想される。

いずれにしても、今日の人類の平和が「軍事力の均衡」によってかろうじて維持、確保されている現状においては、民主党政権によって揺らぎはじめた日米安保条約の再構築と日本の自主防衛能力のいっそうの向上によって、領土領海の確保と保全を図るしかない。

左翼の偽善的な防衛能力の放棄や、現在の野田内閣の尖閣列島国有化による現状固定化策は、時間の経過にともなう中国の国力、軍事力の増大にともなう軍事的均衡の崩壊によって、戦争の誘発を招くことになるだけである。とくに、いずれ来るべき中国経済の崩壊による国家体制の危機に際して、中国国内矛盾の対外転化として、尖閣列島の「領土問題」が中国共産党によって利用される可能性はきわめて大きい。

次期政権は自民党が担うことになる可能性は大きいが、いずれにせよ、野田内閣とその後継内閣は、日本の防衛能力の強化充実をはからなければならない。困難な財政状況と、信念のない大衆迎合主義によって、中国との間の軍事的均衡を破るような政策をくれぐれも採らないことである。現実を直視し、戦争を誘発するような状況を自ら招くようなことがあってはならない。

懸念されることは、原子力発電政策にも見られるように、現在の民主党の野田内閣のような、大衆迎合の子供内閣では、いつ何時ふたたび大衆の声に推されて、軍事的均衡の破壊政策にまで踏み出さないとも限らないことである。

それでは何のための議会制民主主義か、何のための選良としての国会議員であるか、彼らの存在理由が問われることになるだろう。民主党の政治家はとくに大衆の衆愚的政策におもねる危険につねに晒されている。今回の中国の反日暴動に見るように、大衆のもつ破壊的で狂信的な悟性的本質を見落としてはならない。中国共産党すら、マッチポンプ式に大衆に「理性的」行動を呼びかけているではないか。

選挙目当ての大衆迎合主義にとらわれず、国会議員としての使命と自覚を持って、専門的な知識と経験に基づいて、国家の永久的な繁栄のために尽くす覚悟をもった政治家は、とくに子供政党である民主党にはほとんど皆無だ。その外交政策、政権運営は傍目にも危うくて見ていられない。彼らは日本国を潰しかねない。

むしろ、民主党内の隠れ共産主義者、隠れ社会主義者たちは、「日本」を意図的に潰して、中国や北朝鮮、韓国に合流させようという意図すら持っている。自覚ある日本国民は、こうした隠れ左翼が実質的に牛耳っている民主党を警戒すべきであろう。とくに、現在民主党の代表選に立候補している旧社会党出身の赤松義隆などは、本質的な社会主義者であり、在日中国朝鮮人の迎合論者であり、反日解体論者である。

最近になって竹島や尖閣列島などの領土問題、さらには、いわゆる「従軍慰安婦」や「南京大虐殺事件」などを反日政策に利用する中国朝鮮の共産主義者たちや国内の反日左翼日本人らの実体に触れて、若い世代、青年たちがようやくにしてまともな日本国民としての自覚を回復しつつある。そうした傾向を保守化とか右傾化とか呼んで白眼視する者もいるが、そうではなくて、敗戦後に背負わされ植え付けられた不当なハンディキャップやコンプレックスを克服しはじめたに過ぎない。国際的にも普通の国家国民として新しい世代が自覚し成長し始めているだけである。

その生い立ちからして戦後のGHQ政策の真っ只中に教育され、マッカーサーの反日の日本劣化解体政策を植え込まれた団塊の世代が消えてゆき、その痕跡を矯正する健全な国民的自覚が新しい世代の間に生まれはじめた。日清日露の戦争を戦った明治期の当たり前の日本国家を回復しようという使命に若い世代も気づきはじめ、その困難な道程をようやくにして歩み始めたばかりである。
 


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【尖閣国有化】中国の反撃加速へ 領海侵犯、経済制裁、日米分断       
2012.9.20 00:13   産経新聞  http://goo.gl/L0VzE

 【北京=山本勲、矢板明夫】中国の習近平国家副主席が19日、 パネッタ米国防長官に対し、沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題への不介入を要求した。柳条湖事件を記念する18日を過ぎ、日本政府による同諸島国有 化に抗議する反日デモは1つのヤマを越したかに見えるが、習氏の強硬姿勢が示すように、日米分断を軸とした日本の孤立化促進など、共産党政権の反撃が始 まっている。

 中国の各都市に拡大した反日デモに日本側が振り回されている間に、中国は尖閣奪取に向けた動きを着々と強めている。

 13日には中国外務省が尖閣周辺海域を「領海」と主張する海図を国連に提出、16日には、東シナ海での中国の領海基線から200カイリを超えて広がる大陸棚の延伸を求める案を、国連大陸棚限界委員会に提出すると発表した。

 監視船による領海侵犯の規模と頻度を急拡大して「自国の領海」との既成事実を積み上げており、北京の西側外交筋は「国有化を機にかねて準備していた対日作戦を一気に繰り出してきた」と指摘する。

 党大会を控える当局は予定通り、“ガス抜き”に利用した反日デモを19日に収束させた。しかし、日本政府が「これで一息ついた」と受け止めるのは大間違いだ。中国国内は内部事情で沈静化させても、対日攻勢や米国など国際社会への外交・宣伝攻勢は、今後一段と活発化する。

  中国商務省の姜増偉次官は13日、「中国の消費者が理性的な形で自らの立場を表明しても理解すべきだ」と日本製品ボイコットを容認する発言をした。共産党 機関紙、人民日報(海外版)は17日付のコラムで「日本に大きな殺傷力を及ぼすため標的の中心を狙い攻撃すべし。製造業、金融業、戦略物資の輸入などが対 象だ」と経済制裁を支持。一昨年9月、レアアースの対日輸出を一時停止したような措置を想定しているとみられる。

 一方、習氏と歩調を合わせるように、保守派の周永康中央政法委員会書記が19日、ネパールのシュレスタ副首相兼外相との会談で担当分野外の尖閣問題に言及し、「今日の日中関係の困難はすべて日本側が作り出したものだ」と語り、ネパールの懐柔を図った。

 最重要課題は日米同盟の分断だ。人民日報傘下の国際情報紙、環球時報は19日付の社説で「米国を中日両国の中間に寄らせるべきだ」と主張。「釣魚島は中国領」との国際宣伝を一段と強化する構えを示している。

(c) 2012 The Sankei Shimbun & Sankei Digital

2012年9月18日火曜日

柳条湖事件

今 から81年前に、柳条湖事件 があったそうです。ここから満州事変へと発展してゆく端緒になったとされる事件です。中国では本日この日に反日デモが行われ、暴徒化しています。この事件 の歴史的な背景をあらためて概略的にも知っておくために、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から、〔柳条湖事件〕の項を参考にさせ ていただきました。

この事件を契機にして、満州事変から1945年8月15日のポツダム宣言の受諾による日本の敗戦に至るまでの、東アジア大陸において中国と日本の間で戦われた日中戦争と太平洋を挟んで日本と主にアメリカを中心とする連合軍との間に戦われた戦争については、このブログではさしあたっては『東アジア戦争』と呼んで、その歴史研究を進めてゆきたいと思います。従来この戦争の呼称については、「太平洋戦争」とか「大東亜戦争」が一般に用いられていますが、このブログでは、原則としては『東アジア戦争』という用語を用いることにします。


柳条湖事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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事件直後の柳条湖の爆破現場

柳条湖事件(りゅうじょうこじけん、英語: Liutiaohu Incident)は、関東軍謀略によって起こった、満州事変の発端となる鉄道爆破事件[1]1931年昭和6年、民国20年)9月18日午後10時20分ころ、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件である[2]。事件名は発生地の「柳条湖」に由来するが、長いあいだ「柳条溝事件」(りゅうじょうこうじけん、Liutiaogou Incident)とも称されてきた(詳細は「事件名称について」節を参照)。

なお、発生段階の事件名称としては「柳条湖(溝)事件」のほか「奉天事件」「9・18事件」があるが、その後の展開も含めた戦争全体の名称としては「満州事変」が広く用いられている[3][注釈 1]

目次

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事件の経緯 [編集]

物証として提出された中国軍の帽子と小銃

1931年昭和6年、民国20年)9月18日金曜日)午後10時20分ころ、中華民国奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽市)北方約7.5キロメートルの柳条湖付近で南満州鉄道(満鉄)の線路上で爆発が起き、線路の一部が破壊された[2]

まもなく、関東軍より、爆破事件が中国軍の犯行によるものであることが発表された[2]。日本では一般的に、太平洋戦争終結に至るまで爆破は張学良ら東北軍の犯行と信じられていたが、実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略事件であった[2]

事件の首謀者は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と関東軍作戦主任参謀石原莞爾中佐であり、ともに陸軍中央の研究団体である一夕会の会員であり、張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作大佐の後任として関東軍に赴任した[2][注釈 2]

爆破の直接の実行は、奉天虎石台(こせきだい)駐留の独立守備隊第二大隊第三中隊(大隊長は島本正一中佐、中隊長は川島正大尉)付の河本末守中尉ら数名によっておこなわれた[2]。河本中尉が伝令2名をともなって現場におもむき、斥候中の小杉喜一軍曹とともに線路に火薬を装填したのである[4]。これは、関東軍の自作自演(偽旗作戦)であった[注釈 3]。この計画に参加したのは、幕僚のなかでは立案者の石原と板垣がおり、爆破工作を指揮したのは奉天特務機関補佐官の花谷正少佐と参謀本部付の張学良軍事顧問補佐官今田新太郎大尉であった。爆破のための火薬を用意したのは今田大尉であり、今田と河本は密接に連携をとりあった[5]。このほか謀略計画に加わったのは、三谷清奉天憲兵分隊長と、河本中尉の上司にあたる第三中隊長の川島大尉など数名であった[2]

ただ、第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によれば、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第一部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略を知っており、賛意を示していたという[注釈 4]

当時、関東軍は兵力およそ1万であり、鉄道守備に任じた独立守備隊と2年交代で駐箚する内地の1師団(当時は第二師団、原駐屯地宮城県仙台市)によって構成されていた。8月20日に赴任したばかりの本庄繁を総司令官とする関東軍総司令部は遼東半島南端の旅順(当時、日本租借地)に置かれており、幕僚には参謀長として三宅光治少将、参謀として板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐、新井匡夫少佐、武田寿少佐、中野良次大尉が配置されていた。独立守備隊の司令部は長春市南方の公主嶺(現吉林省公主嶺市)に所在し、司令官は森連中将、参謀は樋口敬七郎少佐であった[注釈 5]。第二師団の司令部は奉天南方の遼陽(現遼寧省遼陽市)に設営されており、第三旅団(長春)と第十五旅団(遼陽)が所属、前者に第四連隊(長春)・第二十九連隊(奉天)、後者に第十六連隊(遼陽)・第三十連隊(旅順)などが所属した[2][3]

この爆破事件のあと、南満州鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしているが、関東軍兵士によって立ち入りを断られている。また、爆破そのものは小規模なものであり、レールの片側のみ約80センチメートルの破損、枕木の破損も2箇所にとどまった[2][5][注釈 6]。爆破直後に奉天10時30分着の長春大連行の急行列車が現場を何事もなく通過していることからも、この爆発がきわめて小規模だったことがわかる。今日では、爆発は線路の破壊よりもむしろ爆音を響かせることが目的ではなかったかとの説も唱えられている[6][注釈 7]

1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営

川島中隊(第二大隊第三中隊)はこのとき、奉天の北約11キロメートルの文官屯南側地区で夜間演習中だったが、爆音を聴くやただちに軍事演習を中止した[5]。中隊長の川島大尉は、分散していた部下を集結させ、北大営方向に南下し、奉天の特務機関で待機していた板垣征四郎高級参謀にその旨を報告した。参謀本部編集の戦史では、南に移動した中隊が中国軍からの射撃を受け、戦闘を開始したと叙述している[5]。板垣参謀は特務機関に陣取り、関東軍司令官代行として全体を指揮、事件を中国側からの軍事行動であるとして、独断により、川島中隊ふくむ第二大隊と奉天駐留の第二師団歩兵第二十九連隊(連隊長平田幸広)に出動命令を発して戦闘態勢に入らせ、さらに、北大営および奉天城への攻撃命令を下した[2][3][4]。北大営は、奉天市の北郊外にあり、約7,000名の兵員が駐屯する中国軍の兵舎である。また、市街地中心部の奉天城内には張学良東北辺防軍司令の執務官舎があった。ただし、事件のあったそのとき、張学良は麾下の精鋭11万5,000を率いて北平(現在の北京)に滞在していた[2][3]

本庄繁関東軍司令官と石原作戦参謀ら主立った幕僚は、数日前から長春、公主嶺、奉天、遼陽などの視察に出かけており、事件のあった9月18日の午後10時ころ、旅順に帰着した。しかし、このとき板垣高級参謀だけは、関東軍の陰謀を抑えるために陸軍中央から派遣された建川美次少将を出迎えるという理由で奉天にのこっていた[2]。午後11時46分、旅順の関東軍司令部に、中国軍によって満鉄本線が破壊されたため目下交戦中であるという奉天特務機関からの電報がとどけられた[7]。しかし、これは板垣がすでに攻撃命令を下したあとに発信したものであった[7]

日本軍(第二師団)の奉天入城

報せをうけた本庄司令官は、当初、周辺中国兵の武装解除といった程度の処置を考えていた。しかし、石原ら幕僚たちが奉天など主要都市の中国軍を撃破すべきという強硬な意見を上申、それに押されるかたちで本格的な軍事行動を決意、19日午前1時半ころより石原の命令案によって関東軍各部隊に攻撃命令を発した[7]。また、それとともに、かねて立案していた作戦計画にもとづき、林銑十郎を司令官とする朝鮮軍にも来援を要請した[7]。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された[8]。攻撃占領対象は拡大し、奉天ばかりではなく、長春、安東鳳凰城営口など沿線各地におよんだ[7]

深夜の午前3時半ころ、本庄司令官や石原らは特別列車で旅順から奉天へ向かった。これは、事件勃発にともない関東軍司令部を奉天に移すためであった。列車は19日正午ころに奉天に到着し、司令部は奉天市街の東洋拓殖会社ビルに置かれることとなった[7]

奉天城内を守る日本兵(同仁薬局前)

いっぽう、日本軍の攻撃を受けた北大営の中国軍は当初不意を突かれるかたちで多少の反撃をおこなったが、本格的に抵抗することなく撤退した[2]。これは、張学良が、かねてより日本軍の挑発には慎重に対処し、衝突を避けるよう在満の中国軍に指示していたからであった[2]。北大営での戦闘には、川島を中隊長とする第二中隊のみならず、第一、第三、第四中隊など独立守備隊第二大隊の主力が投入され、9月19日午前6時30分には完全に北大営を制圧した[5]。この戦闘による日本側の戦死者は2名、負傷者は22名であるのに対し、中国側の遺棄死体は約300体と記録されている[2]

奉天城攻撃に際しては、第二師団第二十九連隊が投入された[5]。ここでは、ひそかに日本から運び込まれて独立守備隊の兵舎に設置されていた24センチ榴弾砲(りゅうだんほう)2門も用いられたが、中国軍は反撃らしい反撃もおこなわず城外に退去した[2]。午前4時30分までのあいだに奉天城西側および北側が占領された[5]。奉天占領のための戦闘では、日本側の戦死者2名、負傷者25名に対し、中国側の遺棄死体は約500にのぼった[7]。また、この戦闘で中国側の飛行機60機、戦車12台を獲得している。

安東・鳳凰城・営口などでは比較的抵抗が少ないまま日本軍の占領状態に入った[7]。しかし、長春付近の南嶺(長春南郊)・寛城子(長春北郊、現在の長春市寛城区)には約6,000の中国軍が駐屯しており、日本軍の攻撃に抵抗した。日本軍は、66名の戦死者と79名の負傷者を出してようやく中国軍を駆逐した[7]。こうして、関東軍は9月19日中に満鉄沿線に立地する満州南部の主要都市のほとんどを占領した[7]

9月19日午後6時、本庄繁関東軍司令官は、帝国陸軍中央の金谷範三参謀総長に宛てた電信で、北満もふくめた全満州の治安維持を担うべきであるとの意見を上申した。これは、事実上、全満州への軍事展開への主張であった。本庄司令官は、そのための3個師団の増援を要請し、さらにそのための経費は満州において調達できる旨を伝えた[7]。こうして、満州事変の幕が切って落とされた。

9月20日、奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命され、日本人による臨時市政が始まった[4]9月21日、林銑十郎朝鮮軍司令官は独断で混成第三十九旅団に越境を命じ、同日午後1時20分、部隊は鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に入った。

事件決行までの経緯 [編集]

日中関係の緊迫化 [編集]

万宝山事件の衝突現場

1928年(昭和3年、民国17年)の張作霖爆殺事件ののち、息子の張学良は反日に転じた。張学良政権は南京の国民党政権と合流し、満州では排日事件が多発した。1930年(昭和5年、民国19年)4月、張学良は満鉄への対抗策として満鉄並行線を建設、そのため南満州鉄道会社は創業以来はじめて赤字に陥り、深刻な経営危機に陥っている[9]。また、蒋介石の国民党政権は1930年5月に新鉱業法を制定して日本人の土地と鉱業権取得を制限したため、日本人による企業経営の多くは不振を余儀なくされた。加えて1930年から翌31年にかけての日本経済は世界恐慌の影響によって危機的な状況に陥り(昭和恐慌)、企業倒産、失業者の大量発生、農村の疲弊など深刻な不景気にみまわれた[1]

当時の日本国民にとって満州における権益は、日露戦争で父祖や先人が血を流して獲得したものであり、満蒙は日本の生命線であるという意識が共有されていた。それゆえ、満蒙の支配が揺らぐことは日本の危機であるととらえる国民が多かった[1]。帝国議会で、前満鉄副総裁で野党立憲政友会選出の衆議院議員松岡洋右が「満蒙はわが国の生命線である」と述べ、立憲民政党内閣の「軟弱外交」を批判して武力による強硬な解決を主張したのも1931年1月のことであった[10]

1931年(昭和6年、民国20年)7月、万宝山事件が起こっている。韓国併合後、困窮化した朝鮮半島の農民は、多く日本や満州に流入したが、朝鮮総督府は朝鮮人の日本への渡航を厳重に取り締まった一方で、満州への移住は従来通りとしたため、在満朝鮮人が急増し、在満朝鮮人と中国人の関係は紛争の火種となった[10][注釈 8]

万宝山事件は、長春の北、三姓堡万宝山集落の農業用水をめぐる朝鮮人農民と中国人農民との対立に端を発しており、ここに水路を造ろうとした朝鮮人と、それに反対する中国人が衝突したことに起因する。中国人農民に中国側の警察官、朝鮮人には日本領事館がそれぞれ支援にまわったが、中国人農民が実力で水路を破壊、日本人警官隊と衝突する事態へと発展した[1][9]。双方発砲事件も起こったが幸いどちらも死傷者は出なかった[9]。しかし、事件の詳細が誤って伝えられると、朝鮮半島各地で中国人への報復(朝鮮排華事件)が多数発生し、100人以上の中国人が殺害されて日中間の緊張を高めた[1][4]

農業技師と偽って旅行中の中村震太郎(左)と案内役の旅館経営者、井杉延太郎

その1か月前には、参謀本部から対ソ作戦のために興安嶺方面の軍用地誌をはじめとする情報収集を命じられた中村震太郎大尉が、洮南索倫のあいだで現地屯墾軍の中国兵に怪しまれて射殺される中村大尉事件が起こった[1][4]。昴昴渓(現在の黒竜江省チチハル市昂昂渓区)において旅館を経営している井杉延太郎予備役曹長も同時に殺害された。7月末になって関東軍がその殺害の事実をつかみ、外交交渉に入ったが、交渉の進展ははかばかしくなく、関東軍はいらだちを強めた[4]。中国当局は表面的にはこの事件を穏便に処理しようとしていたが、本心では、身分を偽っての偵察行為はスパイ活動であり、処分は当然ではないかという憤懣があった[3]。一方、日本では、この事件は8月に公表されたが、中村大尉が諜報活動に従事していたことは伏せられて報道されたこともあって、参謀本部現役将校の殺害に国内世論が沸騰した[9]。中国側報道のなかに「中村大尉殺害は事実無根」などというものがあり、それが日本で報じられたこともあって中国側の非道を糾弾し、対中強硬論が一挙に強まって、日中関係が緊迫した[1][9][10]

この2つの事件は、日本国民に「満蒙の危機」を強く意識させた。そして、満蒙における日本と中国との対立は一触即発の状態になっていた[1]。さらに、第2次若槻内閣の幣原喜重郎外相による国際協調路線に立つ外交(幣原外交)は「軟弱外交」と形容され、国民の間では、こうした手法では満蒙問題を十分に解決できないという不満が強まっていた[1]

石原莞爾の構想 [編集]

「軍事の天才」と称された石原莞爾(1934年の写真)

柳条湖事件を計画・立案したのは、板垣征四郎と石原莞爾の2人であった。上述のとおり、2人はともに一夕会の会員で、板垣は二葉会、石原は木曜会にも加わっていた[11]

1928年(昭和3年)1月19日にひらかれた木曜会第3回会合で、当時、陸軍大学校の教官であった石原莞爾が「我が国防方針」という題で話をしており、ここで「日米が両横綱となり、末輩之に従ひ、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」という彼独自の戦争論を述べている[12]。石原は、このなかで、日本から「一厘も金を出させない」という方針の下に戦争しなければならないと述べ、「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも」戦争を続けられるという構想を語った[12]

当時の石原はまた、この構想について、陸軍大学校の『欧州古戦史講義』においても、経済的に貧弱な日本が仮に百万規模の最新式軍隊を出征させ、なおかつ、膨大な軍需品を補給しなければならないとしたら国家的破産は必至であり、それゆえ、フランス革命後のナポレオン・ボナパルトが対イギリス戦でみせたような、占領地徴税・物資・兵器によって出征軍が自活するような方法を採用し、それをもって中国の軍閥を掃蕩、土匪を一掃して治安を回復すれば、たちまち民衆の信頼を獲得して目的以上のことを達成できると説き、「戦争により戦争を養ふ」本旨を説明した[12]。こうした現地自給の発想は、為政者や実務官僚を説得する際のロジックとしては大きな効果を有していた[12]

その石原が関東軍参謀作戦主任として赴任したのは、1928年10月のことであった[1]。石原は、翌年5月の板垣の着任を待って、具体的な行動をとり始める。

1929年(昭和4年)7月、関東軍の北満参謀演習旅行が実施された[11]立憲政友会を与党とする田中義一内閣の末期、中東鉄路(満州中東鉄道)をめぐる中ソ紛争が起こった約1か月前のことである。ここで石原は「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」および「関東軍満蒙領有計画」を参謀たちに提出した[11]。石原は、このなかで「満蒙問題の解決は日本が同地方を領有することによって始めて完全達成せらる」と主張し、「前期目的を達成する為には対米戦争の覚悟を要す」「適時支那本部の要部をも我領有下に置」くと述べている[1][11]。満蒙領有方針は石原によって関東軍に持ち込まれ[11]、そこには対米戦争を予言する文言もふくまれていた。

日米戦争とは、石原の戦争史観によれば、将来「西洋の代表たる米国と東洋の選手たる日本間の争覇戦が世界最終戦争として起きる」というものであった[1]。石原は、東洋を代表する国としての資格を獲得するためには、国防上の拠点であり、朝鮮統治および中国指導の根拠でもあり、さらに、不況打開にとっても重要な意味をもつ満蒙問題の解決が必要であると説いた[13]。そして、将来の日米最終決戦の準備のためには、「国家を駆りて対外発展に突進せしめ途中状況により国内改造を断行する」として、対外戦争を突破口としての国家改造をも企図していたのである[1]

さらに石原は、「満蒙問題解決案」において、「満蒙の合理的開発により、日本の景気は自然に回復し有識失業者亦救済せらるべし」と記し、金融恐慌以降の不況の解決と失業者の救済を訴えた[1]。ただし、一方では「満蒙は我が人口問題解決地に適さず、資源また大日本のためには十分ならざる」ものだとの認識も示しており、したがって「支那本部の要都」をも日本の「領有下」に置き、「東亜の自給自足の道」を確立する必要があるとも考えていた[11]

独断で朝鮮軍を出動させ、「越境将軍」と呼ばれた林銑十郎

石原としては、ソ連がまだ軍事的に弱体なうちに、なおかつ、中国とソ連の関係が最悪なときをねらって、日本とソ連が対峙する防衛ラインを短縮させる方向で長城線以北の地を占領し、包括的に支配することを目指したのであった[14]。ソ連が弱体なうちに北満州まで獲得してしまえば、防衛ラインが短縮するだけでなくソ連はしばらくは出て来られないであろうとの楽観的な見通しに支えられていた[14]。石原の力説するところによれば、中国には近代国家をつくる力に乏しいので、日本の「指導」のもとで中国の発展と東洋平和を期すべきなのであり、その意味からは日本が満蒙を領有することは「正義」であり、しかも、日本にはこれを決行する「実力」があるというものであった[13]。そして、この地域をなぜ支配しなければならないかといえば、あくまでもアメリカとの最終戦争に必要だったからである。満州事変は、一見すれば、ソ連の軍事的脅威、中国のナショナリズムという脅威という、目前の事態に対処するために起こされたようにもみえるが、大局的には、将来的な国防上の必要に貫かれて導かれ、その結果として引き起こされたものであった。そして、満州に中国本部と切り離した独立政権をつくることは九カ国条約不戦条約にも違背しないと考えられたのであった[12][14]

石原は、以上のような計画を実現するために板垣征四郎とはかって1931年(昭和6年)には関東軍に調査班を設置して事変の準備を急いだ。板垣は、石原のような思想家ではなかったが石原構想を高く評価した。同年5月には、石原によって「満蒙問題私見」が作成された。それによれば、満蒙問題の解決策は「満蒙を我が領土とする」ことであり、「戦争計画の大綱を樹て得るに於いては謀略により機会を作成し軍部主導となり国家を強引すること」として、謀略による満州領有計画の実行をも決めていた[1]。この段階では、世界恐慌の波及が方針実行の絶好の機会であることも強調された[11]。石原の日記によれば、1931年5月31日に、板垣・石原・花谷・今田は「満鉄攻撃の謀略」に関する打ち合わせをおこなっており、6月8日には「奉天謀略に主力を尽くす」ことで意見の一致をみている[11]

このように、石原・板垣らは、1931年6月初頭には柳条湖での謀略から軍事行動を開始すべく計画・準備を本格化し、9月下旬の決行を申し合わせていた[11]。作戦行動としての満州事変は、北満秘密偵察旅行などの知見にもとづいて綿密に企画、周到に準備されたものだったのである[12]。事変勃発時には、華北の国民革命軍第13路軍を買収して反乱を起こさせ、満州駐留の張学良の軍隊約20万のうち半数を超える大部隊を関内へとおびき出して満州を手薄な状態にするという工作も実行され、功を奏した[12]

9月18日決行にいたる経緯 [編集]

タイム1931年10月12日号の表紙に掲載された幣原喜重郎

以上のように、石原、板垣らは9月下旬(27日か28日ころ)の謀略の決行を予定していた。ところが、9月初旬、東京の外務省に、関東軍の少壮士官が満州で事を起こす計画があるという情報がもたらされた。9月5日、幣原喜重郎外相は、栗原正外務省文書課長にもたらされた情報をもとに、奉天総領事の林久治郎に対し、関東軍の板垣らが近く軍事行動を決行する可能性がある旨を知らせ、注意を呼びかけた[15]。国内では、外務省の谷正之アジア局長が陸軍省小磯国昭軍務局長にその真偽を問い合わせた[11]。また、9月11日には、昭和天皇から陸軍大臣南次郎に対し軍紀に関する下問がなされた。これは、陸軍の動きを危惧した元老西園寺公望の意向によるものであったという[11]。外相電に対して、奉天の林総領事は、厳重注意中であるが、今のところはそのような不穏な動きはみられないとの返電を一旦は送っている[15]

9月14日、関東軍の三宅光治参謀長から陸軍中央の建川美次参謀本部第一部長らに対し現状視察の依頼があった。陸軍中央の首脳部は天皇の意向も考慮し、関東軍の動きを牽制する意味もあって建川の満州行きを決めた。さらに翌15日、奉天の林久治郎総領事は、緊急情報として、関東軍が軍の集結や弾薬資材の搬出などをおこない、近く軍事行動を起こす形勢にあることを幣原外相に伝えた[15]。これは、満鉄理事であった伍堂卓雄からもたらされた情報にもとづく林の判断であった。あわせて林は、総領事館職員に対しては、厳重な警戒を怠らぬよう指示している[15]。林総領事からの緊急情報を受けた幣原外相は、すぐさま南陸相に対し、このようなことは「断じて黙過する訳にはいかない」と強く抗議した。南ら陸軍首脳は、この申し入れもあってあらためて建川少将に武力行使を差し控えさせるように指示した。この時点で建川自身は、石原らの計画の一部についてはすでに知っており、実行の期日を9月27日と考えていたという[11]

こうした軍中央の動向について、東京からの情報を得た石原・板垣らは、計画の中断をおそれ、当初の予定を変更して急遽決行日時を約10日繰り上げ、9月18日の夜とした[11]。軍首脳の意向も度外視して佐官クラスの青年将校が実力行使におよんだ点では、まさに「下剋上」をあらわす現象であった[1]

9月18日、上述のように建川少将は満州で謀略事件が起こるのを抑える任務を帯びて、安東経由の列車でひそかに奉天に入っていたが、司令官一行が旅順に帰ったのちも板垣は奉天にのこり、建川を料亭で泥酔させた[3]。また、東京に出かけていた奉天特務機関長の土肥原賢二は朝鮮経由で奉天にもどる車中にあった。土肥原は謀略の詳細については教えられていなかったが、陰謀に加わった花谷正少佐が機関長代理の任にあった。こういう状況のなか板垣は、事件当日の夜、土肥原不在の奉天特務機関に陣取ったのである[3]

決行の夜、事件を知らせる電話が奉天特務機関から奉天総領事館にもたらされた。林総領事は知人の葬儀に出席して留守だったため、林の部下である森島守人領事が特務機関に急行した。ここで森島は外交的解決を主張したが、板垣高級参謀は即座に「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉するのか」と恫喝した逸話はよく知られている。同席していた花谷特務機関補佐官も抜刀し、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と森島領事を威嚇した[15]。帰館後の森島は、緊急連絡により総領事館に戻った林総領事に一切を報告したうえ、東京への電報や在満居留民保護の措置をとった[5]

事件に対する内外の反応 [編集]

奉天総領事館 [編集]

ラッパを鳴らして奉天入城を果たした日本軍

事件の発生した9月18日の午後11時15分、中国側の交渉署日本科長より在奉天日本総領事館に、日本兵が北大営を包囲しているが、中国側は「無抵抗主義」をとる旨の電話があった[15]。午前0時、午前3時ころにも、同じく交渉署の日本科長より電話で、中国側は「全然無抵抗の態度」をとっているゆえ、日本軍が攻撃を停止してくれるよう申し入れがなされた。同様の申し入れは、臧式毅遼寧省政府主席や趙欣伯東三省最高顧問からもなされたが、これらはいずれも、張学良が、万一の場合は日本軍に対し絶対無抵抗主義をとるよう全軍に指示していたためであった[15]

奉天総領事館の林久治郎総領事は板垣高級参謀に対して電話をかけ、中国側は無抵抗主義の姿勢を明らかにしているのであり、日中両国は交戦状態にあるとはいえないとして外交的解決の採用を勧告したが、板垣は、中国側が攻撃を仕掛けてきたものであり、そうである以上、徹底的に叩くべきだというのが軍の方針であると答えている[15]

林総領事は幣原喜重郎外務大臣に至急の極秘電を送り、関東軍は「満鉄沿線にわたり一斉に積極的行動を開始せんとする方針」と推察される旨を伝えている。これは、さまざまな情報を総合すると、関東軍の行動は単に中国軍に対する自衛的な反撃にとどまらないという見方によるものであった[15]。林は、政府が大至急関東軍の行動を制止する必要がある旨を幣原に進言しており、さらに別電では、この事件が関東軍の謀略である可能性も示唆している[15]

日本政府と陸軍中央 [編集]

陸軍中央に事件勃発の第一報が届いたのは、9月19日午前1時7分であった[16]。これは、奉天特務機関の花谷少佐が18日午後11時18分に発信したもので、中国軍の満鉄線爆破と第二大隊の出動を報じるものであった[16]

事件を知った陸軍中央では、19日午前7時より各機関の首脳が参集し、事後対策を協議した。集まったのは、陸軍省から陸軍次官杉山元、軍務局長小磯国昭、参謀本部からは参謀次長二宮治重、総務部長梅津美治郎、第一部長代理(第二課長)今村均、第二部長橋本虎之助らであった[16]。ここで小磯軍務局長が開口一番に「関東軍の今回の行動は全部至当のことなり」と発言したが、誰も反対はしなかった[16]。兵力増援の必要性も同時に了解され、今村第二課長が増援計画を立案することとなった[16]。8時30分、朝鮮軍の林銑十郎司令官より飛行隊二中隊を増援させ、さらに混成一旅団の奉天派遣を準備中との連絡、また、10時15分には朝鮮軍の鉄道輸送の開始報告の連絡が入った。国外出兵の場合は、閣議において経費支出を認めたのち奉勅命令の伝宣手続きを必要とするので、参謀本部内には林の措置は妥当でないという意見が大勢を占め、越境派兵を見合わせるよう指示した[16][17]

これに対して政府は、19日午前10時に緊急の閣議を召集した。閣議に先だって第2次若槻内閣の首相若槻禮次郎は、南次郎陸軍大臣に関東軍の行動は真に軍の自衛のための行動かと念を押し、南は「もとより然り」と答えた[16][17]。このとき、もしこれが日本軍の陰謀によるものなら、世界に対する日本の立場は困難になることを指摘した[17]。閣議では南陸相の状況説明ののち幣原外相が外務省筋で得た各種情報の朗読があった。幣原の報告は、この事件が関東軍の謀略であることを言外に示唆しており、閣議は陸軍の説明に懐疑的な雰囲気となって、南陸相は満州への朝鮮軍増援を内閣に提議することができなかった。閣議は、陸軍ふくめ「事変不拡大」の方針を決めて散会した[16][17]

若槻内閣の陸軍大臣であった南次郎

19日午後1時30分、若槻首相は参内し、内閣の不拡大方針を昭和天皇に奏上した[18]。このとき若槻は、軍の出動範囲拡大については、必ず閣議を経たうえで裁可していただくよう願う旨付け加えた[18]。陸軍では午後2時から陸軍三長官会議が開かれ、南陸相から、参謀総長の金谷範三と教育総監の武藤信義に閣議決定を伝え、それを南自身合意したことを伝えた[18]。陸軍主流派に属していた金谷は、事件処理について必要以上とならぬよう善処することを本庄関東軍司令官に訓電しており、会議でも「旧態に復する必要あり」との見解を示した。南陸相とは同郷出身でもあり、南に協力的であった[18]。南もまた、本庄司令官に対し事変不拡大方針に留意して行動するよう訓電した[18]

金谷参謀総長の旧態に復するという所見について、今村第二課長は不満であった。今村は「矢は既に弦を放たれたるものなり、之を中途に抑えて旧態に復せんとすれば軍隊の士気上に及ぼす影響大にして国軍の為由々しき大事なりと信ず」と述べ旧態復帰反対(現状維持)を上申した[16][19]。金谷は動かなかったが、二課(作戦課)では旧態復帰は断然不可とする善後策を起案し、参謀本部首脳会議(次長部長クラス)の了承を得た[16][19]。そして、もし内閣が関東軍を旧状に復帰させようとするなら、陸軍大臣は職を賭すべきであり、そのために政府が瓦解しても「いささかも懸念する要なき」という強い方針が確認された[16][19]。いっぽう、若槻は参謀総長が天皇に直属し、内閣の統制外にあることから、元老西園寺公望やその影響下にある宮中重臣らの協力を得て朝鮮軍の満州派兵を食い止めようとした[18]。若槻は、西園寺の政治秘書原田熊雄を通じ、宮内大臣の一木喜徳郎、侍従長の鈴木貫太郎、内大臣の木戸幸一らに協力を要請したが、閣議によって陸軍を抑える以外に術はないなど消極的な姿勢を示した[18]

翌9月20日、午前10時より開催された二宮参謀次長、杉山陸軍次官、教育総監部の荒木貞夫本部長の首脳会談では、3人は柳条湖事件をもって満蒙問題解決の糸口とする旨を表明、政府倒壊も意に介せずとの強硬方針を確認して、旧態復帰断固阻止を申し合わせた[8][16]。いっぽうの原田は宮中の重臣らが、若槻の協力要請に対して消極的であったことを若槻首相に伝えた[18]。ただし、この日の午後2時、金谷参謀総長は参内し、天皇に対して、これまでの戦闘経過と各地の軍の配備状況を報告するとともに、将来については閣議決定を尊重する旨をはっきりと奏上した[18]

9月21日午前10時からの閣議では、関東軍が治安維持に必要な行動以外に軍政を実施すること等の禁止が決定され、満蒙問題の「一併解決」が必要であることで合意した[20]。しかし、今後の関東軍の態勢については現状維持と旧態復帰で意見が割れ、南陸相らは現状の占拠状態のまま中国と交渉することを主張したのに対し、幣原外相らは占拠を解いて交渉に移るべしと主張して議論は平行線をたどった[20]。閣議では、この日午前に始まった関東軍の吉林派兵が問題となり、閣僚全員が派兵に反対した。南陸相が不穏な現地の状況を説明して派兵の必要を訴え、吉林以外には派兵せずと言明して了解を得た。さらに、南陸相より満州への朝鮮軍増援の提議があり、若槻ひとり増援の必要を認めたが、他の閣僚は、国際連盟で問題とされる可能性があることや関東軍の旧態復帰時に困難を引き起こす危険性があることなどから、安保清種海相ふくめ、全員が不要論に立った[20]

昭和天皇(1935年の写真)

閣議でこの議論がなされていた午後3時半ころ、朝鮮軍より越境開始を知らせる参謀総長宛の電文が到着し、ただちに陸相より閣議に報告された[20]。林銑十郎司令官の命令による独断越境であった。一軍の司令官が天皇の命をまたず部隊を国外に動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当した[19]。若槻首相や井上準之助蔵相は閣議の席上でおおいに憤慨した[20]。この話をあとで聞いた鈴木侍従長も「御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と怒ったという[20]。午後6時、金谷参謀総長は、単独の帷幄上奏によって、朝鮮軍独断越境について天皇の裁可を得ようとして参内したが、それには事前に首相の承認を必要とするとの奈良武次侍従武官長、鈴木侍従長らの助言、および、同様の趣旨からの永田鉄山ら軍事課の反対により、これを断念、独断越境についての報告と陳謝をおこなった[20]。その夜、杉山陸軍次官が若槻首相を訪ね、独断越境について閣議で承認する旨を今晩中に天皇に奏上してほしいと頼んだが、若槻はこれを断った[20]

9月22日午前9時半、若槻が参内した際、昭和天皇より、政府の事変不拡大方針は至極妥当と思うので、その趣旨を徹底するよう努力せよとの言葉をかけられている[20]。若槻は宮中で金谷参謀総長に会い、金谷からは独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断り、総理大臣官邸での閣議に向かった[20]。閣議では、若槻は天皇のことばを南陸相をふくむ全閣僚に伝えたうえで、独断出兵の処理を議題としたが、この時点では出兵に異論を唱える閣僚はなく、いっぽうで賛意の意思表示も全くなかった。結局、若槻内閣は朝鮮軍の出動とそのための戦費支出を事後承認して、正式派兵とした[8]。閣議ののち、若槻首相は参内、天皇に上奏し、南陸相と金谷参謀総長も部隊の満州派遣を上奏して允裁を得て即座に関東軍・朝鮮軍両司令官に奉勅伝宣した[注釈 9]。若槻首相は「こういう情勢になってみると自分の力で軍部をおさえることはできない」と語ったといわれる[8][注釈 10]

日本の世論、国民 [編集]

日本国内の各新聞は9月19日付の号外で事件勃発を報じたが、ラジオも19日午前6時半、「臨時ニュース」としてこれを伝えた[21][注釈 11]

事件の翌々日にあたる1931年9月20日付『神戸新聞』には、事件に対する市民の声が掲載されている。それによれば、

  • 車夫 「一体から幣原があかんよって支那人になめられるんや。向ふから仕掛けたんやよって満州全体、いや支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持になって俺らも助かるんや」
  • 交通巡査 「大いに膺懲すべしだ」
  • 市電車掌 「やりゃいいんです。やっつけりゃいいんです。大体支那の兵隊といへば卑怯なやり方ですからね。…うんと仇討、賛成ですね」
  • 料理屋女房 「これで景気がよくなりますと何よりです」
  • 商店主 「とも角、いままで培って来た満州のことです。捨てて堪りますか。私はこれでも日露戦争に出たんですから」

というものであった。

一般の日本国民は、満州事変における関東軍の行動を熱狂的に支持した[15]。当時の児童の作文などからは、沸き上がってくる軍国熱とともに不安や緊張も綴られている[22]。当時、上述の中国側の無抵抗方針や現地の奉天総領事の判断や見解は一切報道されておらず、その点ではマスメディアの報道のあり方にも問題があった[15]。もとより、少数ながら事件に対し批判的なメディアもあった。石橋湛山の『東洋経済新報』は、中国国民の覚醒と統一国家建設の要求はやみがたいものであり、力でそれを屈服させることは不可能だと論じた[22][注釈 12]

蒋介石政権と中国民衆、諸外国 [編集]

張学良の軍は上述のように日本軍との戦闘を回避したが、蒋介石の軍もまた中国共産党の軍との戦闘に専念するため日本との戦闘は回避し、9月21日、満州問題を国際連盟に提訴した[8]

しかし、国際連盟は当初日本の軍事行動に対して何ら有効な行動をとらなかった。帝国主義列強にとって中国の共産主義ナショナリズムの方がむしろ大きな脅威であり、当初、日本に対し宥和的な姿勢を示したのである。ソビエト連邦計画経済の実施と農業集団化の推進に国力を傾注しようとしており、事件には不干渉の方針をとった[1]

しかし、満州での事変拡大は中国民衆のはげしい反日感情を生み、いたるところで「抗日救国」が呼号された[23]上海では9月24日、学生10万、港湾労働者3万5,000がストライキをおこない、26日には市民20万人が参加して抗日救国大会がひらかれ、対日経済断行が決せられた[24]。北平でも9月28日に20万を超える市民が抗日救国大会をひらき、政府に対日参戦を要求、さらに市民による抗日義勇軍編成が決議された[24]。日本商品ボイコット運動も広範囲に広がり、日本の対中国輸出を激減させた[23][24]。中国民衆のなかでこうした強く激しい反日感情が長くつづいた背景には、中国では、この年の7月から8月にかけて長江流域で大水害が発生し、家を失い、飢餓と寒さに苦しむ1,500万人以上ともいわれる被災者の救済に社会的関心が集まっていたからでもあった[3]。そして、「抗日救国」の運動は翌1932年1月-3月の上海事変でも強い高まりをみせたのである[23]

事件の影響 [編集]

柳条湖事件は満州事変へと拡大し、若槻内閣による不拡大方針の声明があったにもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦線を拡大、1931年11月から翌1932年(昭和7年)2月までにチチハル錦州ハルビンなど満州各地を占領した。その間、若槻内閣は閣内不一致で1931年12月に退陣、かわって立憲政友会犬養毅が内閣を組織した。関東軍は満州より張学良政権を排除し、1932年3月には清朝最後の皇帝(宣統帝)であった愛新覚羅溥儀を執政にすえて「満州国」の建国を宣言した。犬養内閣は満州国の承認には応じない構えをみせていたが、同年5月の五・一五事件では犬養首相が暗殺されて、海軍軍人の斉藤実に大命が下ると斎藤内閣は政党勢力に協力を要請して挙国一致内閣を標榜、軍部の圧力と世論の突きあげによって満州国承認に傾き、同年9月には日満議定書を結んで満州国を承認した。

一方の中華民国は、これを日本の侵略であるとして国際連盟に提訴した。列国は、当初、事変をごく局所的なものとみて楽観視していたが、日本政府の不拡大方針が遵守されない事態に次第に不信感をつのらせていった。1932年1月に関東軍が張学良による仮政府が置かれていた錦州を占領すると、アメリカ合衆国は日本の行動は自衛権の範囲を超えているとして、パリ不戦条約および九か国条約に違反した既成事実は認められないとして日本を非難した。

国際連盟は、1931年12月10日の連盟理事会決議によって、1932年3月、満州問題調査のためにイギリスのリットン卿(ヴィクター・ブルワー=リットン)を現地に派遣した(リットン調査団[25]。調査は3か月におよんで同年6月に完了、同年9月には調査の結果をリットン報告書として提出した。

事件名称について [編集]

この事件の発生地は、独立守備隊の歩兵第二大隊第三中隊の柳条湖分遣隊の兵舎北方約1.5キロメートル地点であり、その周囲の地名は柳条湖(柳條湖)であった。しかし、この爆破事件および事変全体を策謀したひとりであり、9月18日当夜に軍事行動を指令・指揮した板垣征四郎は、事件の報せを聞いて駆けつけた奉天総領事館の森島領事に対し、発生地を意図的に「柳條溝」と伝え、複数のマスメディアに対してもそのように伝えた[3]。理由不明ながら、その時点で発生地名はいわば「創作」されたのである[3]。満鉄の記録でも9月19日から「柳條湖」が「柳條溝」に訂正された。9月24日、内外マスメディアに対し、事件を説明したのは第二大隊長の島本中佐であったが、板垣発表と齟齬をきたさないため、自分の守備範囲の地名を「柳條溝」という虚偽のかたちで示さざるを得なかった[3]

しかし、「柳條溝」が事件発生地として一躍有名になった一方で、本来の地名は柳条湖であり、分遣隊の存在もあったので、関東軍内や陸軍部内でもすぐに「柳條湖」に訂正された。1932年の満州国建国後は「五族」にとっても親近感のある「柳条湖」に徐々に改められ、1935年(昭和10年)の参謀本部編『満洲事変史』でも「柳條湖」と表記された[3]。ただし、その後も、軍部においても「柳條溝」の表記はかなりみられた。満州国では1936年以降新聞でも「柳條湖」に修正したが、日本国内ではマスメディアの「柳條湖」への修正は1940年以降となった[3]。やがて敗戦のためにこの修正の事実そのものが忘れられ、一方、極東国際軍事裁判などでは発生段階の「柳條溝事件」が使用されたり、「奉天事件」「奉天事変」の名称も正式名称的に用いられるなどしたため、「柳条湖」の地名はしばしば忘却されたのである[3]

日本近現代史の研究者である武蔵大学教授島田俊彦1967年(昭和42年)、基本史料の発掘にともなって発生地の本来の地名が「柳条湖」であることを再発見、1970年(昭和45年)には改めてその事実を指摘し、「柳条湖事件」の呼称を提唱した。しかし、当時は唯物史観全盛で「十五年戦争論」(日本陸軍は一貫して侵略戦争を進めていったとする議論)の立場に立つ研究者が優勢で、防衛庁の史料なども用いて史実の多様な側面を考究しようという島田の研究は呼称問題をふくめて無視された[3]。その後、1981年(昭和56年)に中国で公表された徐建東王維遠論文に「柳条湖事件」とあったため、日本では、徐・王の当該研究を契機に「柳条溝」の誤りが正されて「柳条湖」になったとする見解が流布した[3][注釈 13]山田勝芳東北大学名誉教授、中国史、東アジア社会制度史)はしかし、それについては島田の研究が先行していることを強調したうえで、事件直後の経緯を考慮すれば「柳条溝事件」も決して単純な「誤り」ではなかった(当初の事件名はやはり「柳條溝事件」であった)として、「柳条湖(溝)事件」の表記を提唱している[3]。なお、山田は、島田の研究が無視された経緯について、さらに関係研究者の文章に即して検討した「「満洲事変発生地名の再検討」余論」を公表し、それら関係研究者が意図的に島田説に言及しなかった可能性が高いことを具体的に指摘している。

今日では、本来の発生地名を冠した「柳条湖事件」が定着している。

脚注 [編集]

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注釈 [編集]

  1. ^ 満州事変は、「中国東北戦争」などの表記が用いられることもある。満州事変はまた、中国では一般に「九一八事変」と呼称される。森(1993)pp.18-20 および 『1億人の昭和史1』(1975)p.38
  2. ^ 1935年(昭和10年)に奉天で生まれた世界的な指揮者小澤征爾の名は、板垣征四郎と石原莞爾の名より1字ずつとって命名されたものである。
  3. ^ 買収した中国人2人を殺害して、中国兵の服を着せ、爆破現場に2人の遺体を捨てて擬装した。『1億人の昭和史1』(1975)p.39
  4. ^ 戦後、現代史家の秦郁彦が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしている。花谷中将の証言は秦が整理し、1955年(昭和30年)に「花谷正」の名で河出書房より『満州事変はこうして計画された』(「別冊知性」 昭和30年12月号)として発表され、大きな反響を呼んだ。秦はこののち、事件に係わった他の軍人のヒアリングも実施したが、秦によれば、その聴取内容からも花谷証言が正確であったことが確認されるという。秦(1999)
  5. ^ 歩兵第一大隊(公主嶺)・第二大隊(奉天)・第三大隊(大石橋)・第四大隊(連山関)・第五大隊(鉄嶺)・第六大隊(鞍山)で構成されていた。山田(2010)p.9
  6. ^ 破損の計測値については0センチメートルから100センチメートルまで諸説があるが、いずれも軽微な破損にとどまる。江口(1993)pp.602-603
  7. ^ この見解は、戦後の花谷証言にもとづいている。それに対し、山田勝芳は、線路爆破によって急行列車が脱線しなかったことは、板垣らにとって大きな誤算ではなかったかとしている。日本人乗客も多数乗っていた急行が脱線し、死傷者が出たということになれば、事件報道は、より刺激的で扇情的なものとなったことは確実であり、日本国内の反中感情や満州での事変拡大支持を一挙に拡大、獲得できたものと考えられるからである。山田(2010)p.22
  8. ^ 1928年から30年にかけて、在満朝鮮人と中国人との間で起こった紛争は100件におよんだといわれる。大門(2009)p.34
  9. ^ この決定と措置について、政治外交史研究者の川田稔は、若槻首相は、増派問題は南陸相の辞任をまねきかねず、さらに後継陸相が得られない場合は内閣総辞職という重大な事態にいたる可能性があり、そうした事態を回避するために朝鮮軍の満州派兵と経費支出を承認したものと推定している。また、そのことにより、基本的には事変不拡大の線で対処しようとしている南陸相の、陸軍内での影響力保持に協力するとともに、南陸将・金谷参謀総長との信頼関係を再構築したのではないかと論じている。川田(2010)pp.76-79
  10. ^ この経緯について、若槻禮次郎は『古風庵回顧録』に「命令を聞かぬ軍隊」と題して詳述している。
  11. ^ これはラジオの臨時ニュース第1号といわれ、以後、子どもたちにも波及して「臨時ニュースです」は流行語になった。『昭和2 大陸にあがる戦火』(1989)p.291
  12. ^ しかし、その石橋も上海事変の際には日本軍を支持する見解を表明している。大門(2009)p.39
  13. ^ 山田勝芳は、徐・王をはじめとする中国人研究者も島田の研究を意図的に無視した形跡があることを指摘し、問題視している。山田(2010)pp.6-7

出典 [編集]

参考文献 [編集]

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]