2008年11月16日日曜日

NHKの言論自主規制

NHKの言論自主規制

今月の初めに航空自衛隊の田母神俊雄元航空幕僚長が解職されるという事件があった。田母神氏が民間会社の懸賞論文に応募して、そこで明らかになった歴史観が政府見解と異なるという理由によるものである。この問題は新聞の全国紙においても、その是非についての意見はとにかく、取りあげられるほどの社会問題になっていた。

そうして11月13日、この田母神氏がに参院外交防衛委員会に参考人として招致されることになった。私はこれほどの社会問題になっているのだから、当然のことながらNHKで中継放送されるのだろうと思って、当日にNHKの番組を見てみたのであるが、放送日程には組み込まれていなかった。

世論を二分するほどになっているこれほど大きな問題を、その当事者が国会で発言するというのに、なぜNHKは報道し中継しなかったのだろうか。参院外交防衛委員会での田母神氏に対する質疑を聞いて国民はその是非を判断するはずだったのだ。NHKの報道の取捨選択の基準はどこに、また誰に権限があり、また放送の公正さを公的に検証する機関はどのように存在しまた公開されているのだろうか。それが気になった。

今それらを直ちに調査する暇はないけれども、ただ近年のNHKの番組を見ていて感じていることを書いておきたい。

NHKで働く人々のジャーナリズムの能力は、その真実の追求と報道の能力は、その番組制作能力とともに著しく低下してきているのではないか。ひと昔前のNHKの仕事のようには高く評価はできなくなっている。果たしてNHKは日本の放送文化の格調を保つうえで指導的な役割を果たしているのか。最近はその意思も能力も失われつつあるのではないか。また、NHKで働く人々の資質もそれだけ落ちてきているのではないか。民営放送番組と同じような大衆に媚びる番組も著しく増えているようにも思う。

最近は確かにインターネットの発達などもあって、以前のように新聞やテレビだけに情報も限定されることはなくなっている。私たちはかならずしもテレビに頼らずとも、ネットテレビなどによる視聴の機会も増えている。が、それにしても、ほとんどの新聞の社説にも取りあげられている田母神論文問題の、その当事者が国会に参考人に招致されているというのに、それをNHKが中継報道しないという、その判断を疑問に思う。

かって以前にも、NHKが明らかに報道を自主規制していると思われることを経験したことがあった。その時の傾向が相変わらず改善されず、事態がそのまま続いているように思われることである。

もう何年も前になってしまったけれども、 冬季オリンピック大会のフィギアスケートで荒川静香選手が優勝したとき、金メダルを授与されたその表彰式後に、静香選手は日の丸を着てウィンニングランで観衆に応えてリンクを周回していた。そのときに静香選手の跡を追っていたNHKのカメラマンは、突然カメラを天井に焦点を据えたままで、日の丸を背負った静香選手の美しい姿をまったく国民に伝えようとしなかった。荒川静香選手の背負った日の丸の姿を、その時NHKは共同放送していた韓国などの他国に「気を遣った」ためであるとも言われている。

NHKの国家観

NHKの国家観②

また、俳優の関口知宏さんの登場した中国の鉄道紀行番組で、青蔵鉄道を紹介していたときも、この鉄道のもつ問題をチベット民族の立場から報道するということも一切なかった。

中国チベット動乱と日本

NHKの報道姿勢

NHKで働く人々は言論の自由や報道についてのしっかりした哲学とジャーナリストとしての主体性を持つべきであるし、また日本国民に対する教育的使命やその責任の重要性ということを、今いっそう自覚する必要があると思う。とくに大衆の劣情に媚びる番組ではなく、番組の自主制作能力をもっと高めて、また、土曜日の重要な時間帯に韓国、中国やその他外国製のテレビ番組の安易な購入などに依存したりすることなく、以前のように本当に楽しくまた価値ある国産の番組の制作と放映に努めてほしい。

また、同じ公共放送であるイギリスのBBCやドイツのZDFのインターネット放送サービス/などに比較すれば、技術的にも完全に立ち後れている。NHKよ、もっとしっかりしてほしい。日本国民の受信料で信頼を受けて経営を託されているのだから、それはNHKの当然の責務であるはずである。





.

2008年1月21日月曜日

日本国の衰退と復活

どんな歴史の本を読んでも、そこには多くの国家や民族の栄枯盛衰が語られている。個人や企業におけると同様に、国家や民族においても、その隆盛と衰退は避けられない。ただ哲学的な歴史家はそこに何らかの法則性を探ろうとする。個人にせよ企業にせよ、民族にせよ、国家にせよその栄華と没落は何に起因するのか。

短期的な視点から見ても、経済や景気の循環や一国の株価の動向と同じように山もあれば谷もある。最近のニュースを見ていると、最近の日本は長期的な停滞傾向に入っているようである。

小泉元首相が「改革なくして成長なし」 とか「官から民へ」という派手なキャッチフレーズを掲げて登場したとき、国民は圧倒的な支持を与えた。経済改革は竹中平蔵氏に丸投げすることで、郵政民営化や道路改革を実行しようとした。そして、それらの改革の試みが少なくとも国民や海外の投資家に夢を与えていた間は、日本の株価も復活し、失業率や倒産件数も改善された。雑誌「エコノミスト」ではビル・エモット氏らによって「日はまた昇る」として日本経済の力強い復活を語られもした。

しかし、小泉改革も「官僚」や「族議員」らの抵抗にあって、中途半端に終わるか挫折におわり、その傾向が、小泉内閣の後を引き継いだ安倍晋三前内閣の政治姿勢によってさらに決定的になったとき、安倍前内閣は国民の支持を失い、安倍晋三氏は政権を投げ出すしかなかった。安倍前内閣の崩壊の理由は、安倍晋三氏の個人的な病状によるものではなく、根本的には、郵政造反議員の復活や農水大臣の松岡利勝氏や赤城徳彦氏らの族議員、二世議員たちのカネをめぐる政治倫理の問題や国家公務員制度や経済に対する改革姿勢の後退が国民に見抜かれ見放されたことによるものである。

そして、安倍内閣の後を引き継いだ福田康夫氏とそれを選出した自由民主党の党略によって、内閣と与党の改革姿勢の頓挫と小泉政権時代のいわゆる「守旧派」の復活が決定的になった。

道路族の古賀誠氏が自民党の選対委員長に就任し、岐阜一区においては「小泉改革」の女刺客とまで揶揄された佐藤ゆかり氏が「国換え」となり、郵政改革で守旧派とされた野田聖子氏が公認候補として復活するなどして、一時は少なくとも表面的には「自民党をぶっ壊す」という改革姿勢を明確にして登場した「小泉改革」の流れは、ほぼ完全に息の根を止められたことが明らかになった。

小泉内閣が登場するまで「失われた十年」として、日本社会をおおっていた閉塞感が再び芽を伸ばしはじめたようである。それは現在の自民党と公明党による福田政権与党の政治姿勢と決して無関係ではない。日本の政治の、談合型利益誘導政治は完全に温存されたままであるし、公務員制度やマスコミ業界の改革もほとんど手着かずのままである。

改革の方向としては決して難しい問題ではない。政党再編によって、政治をまず利益誘導型政治から理念追求型政治へと根本的に変換することである。そして、新しい日本国のビジョンを明確にすることである。日本国の追求すべき理念とは何か。それは「自由」と「民主主義」である。この一見古くさい理念を新しく復活させることである。それは政治家の仕事でもある。これらの理念は、それだけの永久的な価値をもっている。

日本国の閉塞状況は、何よりも戦後民主主義の硬直した政治体制によって、国民の間に、経済の領域のみならず、政治、教育、文化芸術などあらゆる分野で、「自由」な創意工夫の気風が失われているからである。また似非「改革」が、国民の階層・階級の間の流動化を促すことにならずに、むしろ格差の拡大と固定化につながることになっているからである。

そして、真実の「民主主義」が政治においても教育においても、経済においても実行されていないがゆえに、国民の間には正義の倫理感は失われ、犯罪も増加し、国民生活のあらゆる側面においてセーフティ・ネットワークも確立されずに、国民は生活の不安におびえることになっている。

今さらに、国家の目的理念を「自由」と「民主主義」に確定して、それを全国民で追求するべきである。それが挫折した安倍晋三氏の「美しい国」の復活にもつながる。「自由」の拡大をめざして政治と経済を改革し、正義の実現をめざして、戦後日本の似非民主主義から転換して、真の「民主主義」を追求することだ。それによって、国民の不安と退廃の解消をめざすべきである。

具体的にいえば、「自由」と「民主主義」のそれぞれの理念の追求は、現在の利益談合政界を一度ご破算にして「自由党」と「民主党」に再編することによって実現される。そして、各議員の哲学に応じてそれぞれの政党に所属し、そこで真実の「自由」と「民主主義」を国民のために研鑽し追求してゆくことである。原理は単純で難しい話ではない。国民と政治家の自覚と実行力のやる気の問題である。そうして、「自由」と真の「民主主義」を求めることである。

まず「神の国」と「神の義」を求めよ。そうすれば、国民に必要なものはみな加えて与えられるだろう。

2007年11月20日火曜日

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)


「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

2007年2月24日土曜日

北東アジアの夢―――六カ国協議の遠い行方

北東アジアの夢―――六カ国協議の遠い行方


北東アジアには、中国、南北朝鮮、ロシア、それにわが日本という民族と国家が存在する。これは、ユーラシア大陸の東に何億年、何千年という歳月をかけて形成されてきた地理と自然と、その上に育まれてきた民族の歴史に由来する。その近隣関係の因縁はどうしようもない宿命のようなものである。

たった六十年前には、これらの諸国にアメリカが加わって、第二次世界大戦の一角として太平洋戦争が戦われたばかりである。

政治思想家ホッブスが、国家をレヴィアタンとかビヒモスとかの怪獣に喩えて呼んだように、これらの六カ国は、あたかも唸り声を上げてお互いを威嚇しあうレヴィアタンやビヒモスのように、みずからの生存と威光を相手に承認させるために、虚々実々の駆け引きを展開している。国家や民族の関係というのは、動物の世界と同じで、残念ながら個人の人間関係のようにモラルの面でほとんど進展はしていないのである。

今その北東アジアで朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮の国家体制はもっとも危機的な状況にある。そもそも歴史の大きな流れの骨格からいえば、それは、いわゆる東側の社会主義国家群の崩壊の最終過程として捉えることができる。ソ連や東ドイツその他の東欧の共産主義国家は、1991年のソ連邦崩壊にともなって軒並みに崩壊して行ったのであり、旧社会主義国で今日もなお残存しているのは現在は中国、北朝鮮、キューバくらいだろう。

これらの国は、社会主義経済のままでは国家体制の存続は危ういので、資本主義的な原理を取り入れざるをえなかった。社会主義の計画経済が破綻を招いたために、いわゆる市場主義原理を導入せざるをえなかった。しかし、その経済政策の転換に失敗して、旧社会主義諸国の中で最後の断末魔のうめきと足掻きのなかにあるのが北朝鮮である。そうした歴史的な眺望の中に現在の国際関係の姿を捉える必要があると思う。

中華人民共和国、中国は鄧小平の改革開放路線によって、政治的には共産党による一党独裁体制を堅持しながら、市場の自由化を促進せざるを得なかった。現在のところそれにかなり成功して、中国は政治的にはかろうじて社会主義体制の存続を維持している。そして、経済的により「成功している」中国が、より「危機に瀕している」兄弟国家、北朝鮮の崩壊を支えている。これが現在の北東アジアの国際情勢の客観的な構図である。そうして、北朝鮮の崩壊は直ちに中国の国家的な危機に直結する。しかし、中国の危機も北朝鮮の危機も本質的には同根である。私たちの立場からすれば、中国も、北朝鮮もその国家的な政治的な本質が社会主義にあることは同じである。

そして、今度の六カ国協議の合意で、北朝鮮が取引に使った核保有政策の根本的な目的が、みずから体制維持にあることはいうまでもない。核兵器と言う武器を手に、体制維持のための経済援助を取引しようというのである。

こうした状況にあるとき、日本のなすべき事は何か。まず、経済的な、軍事的な侵略を招かないためには、国内の軍事的、経済的な安全保障の確立を第一の絶対的な課題にしてゆかなければならない。
その方策はどのようなものであるべきか。

残念ながら日本は太平洋戦争の敗北の結果として、精神的にも、また、実際上の軍事上の能力においても、すっかり、骨抜きにされた国家、国民に成り下がっている。だから、太平洋戦争前のように最小限の自力ですら国家の防衛を果たすことはできない。日露戦争時にもまだ発展途上の貧弱な国家に過ぎなかった大日本帝国が対ロシアとの脅威に対抗するためには、英国と同盟を結ばざるをえなかったように、日本は国家防衛のために、その足りないところは、アメリカとの安全保障条約によって補い、強固にしてゆくしかない。さらには、オーストラリア、ニュージーランド、インドなどのいわゆる自由民主主義国と友好関係を深めて、協力、連携を強めてゆくことだろう。

六カ国協議の問題のより深い本質は中国問題であり、日本問題である。共産主義国家体制の中国と、自由民主主義国家体制の日本との間に存在する矛盾が問題の本質である。だから、当面の北朝鮮問題の、六カ国協議の最終的な問題の解決は、中国の民主化に待つしかない。それは長く困難に満ちた道程であるにしても、その最終目的は見据えておく必要があるだろう。

中国も北朝鮮ももちろん、自分たちこそが本当に自由で民主的な国家だと思っている。だから、問題はいずれが本当に自由で民主的かということである。それぞれの国家体制の概念が問われている。そして、真実にその概念にふさわしい国家こそが、真理として存続できる。そうでない国家は歴史の中で崩壊してゆくしかない。

そして、立憲君主国家日本の自由と民主主義の体制が、少なくとも私たちにとって絶対的であるかぎり、私たちは北朝鮮や中国に、お互いの立場の承認を求めざるをえない。

今回の六カ国協議の合意でアメリカは、明らかに北朝鮮に譲歩するという政策転換をはからなければならなかったのはなぜか。アメリカの立場からすれば、明らかに、北朝鮮問題よりもイラク問題が優先されることはいうまでもない。

極東の小国日本のようにひたすら中国の台頭や北朝鮮の核武装にかまけているだけにはゆかない。アメリカは冷戦に勝ち残った唯一の世界の大国として、世界の秩序の維持にそれなりの責任をになっている。アメリカの立場から緊急を要するのは、イラク問題であり、さらには、イランの核問題である。そして、イラクですでに手負いのライオンになったアメリカは、イラク・イランと北朝鮮の両方に対して同じ比重でかかわることができない。おそらく、イランとの戦争の危機さえ覚悟し始めたアメリカにとって、北朝鮮問題は中国の仲介による当面の安定を期するしかなかったのであろう。それによって北朝鮮の金正日体制の崩壊の危機は先延ばしにせざるをえないのである。

今のアメリカにとって切実なのは、イラク・イラン問題である。そして、そうである以上、アメリカは北朝鮮問題に本格的な力を振り向けることはできない。そして、アメリカの本格的な関与なくしては北朝鮮問題の根本的な解決は期待できない。何らかの体制的な危機は起こりうるかもかもしれないが、中国もアメリカも体制崩壊を望まない以上は、国民を苦しめながらも、基本的にはまだ現在の金正日体制が存続してゆくのだろう。

本当の危機は十数年後に、もちろん、それがいつになるか正確にはわかるはずもないが、中国の共産主義独裁体制が揺らぎ始めるときだろう。北朝鮮の崩壊があるとすれば、それは中国とともにその命運が尽きるときである。すでに、中国は1989年の天安門事件で体制的な危機に面していた。もし、あの時に反体制側の戦略が効を奏するだけのものであったなら、中国もすでにロシアや東欧と同じように民主化が実現されていたかもしれない。

しかし、人民軍の戦車の前に、中国の反体制勢力は鶏のように眠り込まされてしまった。しかし、それは今も眠り込まされているだけであって、死んでしまったわけではない。問題の真実の解決は、北朝鮮と中国の国民が自らの手で、民主化を実現するしかない。金正日の北朝鮮と共産中国がどのようにして平和裏に、生命の損失を最小限に抑えながら、その歴史的な体制変革を図るか、それが鍵になる。そこに至る過程が比較的に穏やかな道を辿るのか、あるいは、嵐に満ちたものになるか、それは分からない。

だから日本が自分たちの自由と民主主義を絶対的なものとするかぎり、経済と文化と軍事において自由と独立を確保しながら、その一方で、アメリカやその他の自由主義諸国と協力連携しながら、北朝鮮と中国の平和的な体制変革をあらゆる手段で期するしかない。

そして、やがて金正日の北朝鮮と共産主義中国の独裁国家体制が遠い過去の話しとなり、日本やアメリカのように自由で民主的な国家体制が、中国大陸と朝鮮半島に実現するときこそ、北東アジアに安定した平和が訪れるときなのだろう。

その時こそ、ユーラシア大陸を挟んで、西のヨーロッパ連合(EU)に対して、アジア連合(ASIAN UNION)が建設に着手されるときなのだろう。そうして中国人はより中国人になり、朝鮮人はより朝鮮人に、日本人はより日本人らしくなって、それぞれ民族としての特質を深めながら友好がはかられる。おそらく今世紀中には実現されるだろうが、もちろん、私たちはそのときまでは生きてはいない。


2007/02/24



.

2007年1月12日金曜日

日本の内なる北朝鮮

日本の内なる北朝鮮

かって在日朝鮮人が歓喜雀躍して帰国運動に従事し、祖国再建に希望をもって北朝鮮に夢を抱いて渡っていった頃にくらべれば、もはや北朝鮮の評判は地に落ちてしまったといえる。マスコミなどから折に触れて伝えられる北朝鮮についての情報が、飢餓や脱国、拉致などについてのニュースばかりであるから無理もない。

わが国で北朝鮮への帰国運動が行なわれていた当時にあっては、社会主義体制と資本主義体制が世界を二分するいわゆる冷戦構造がまだ揺るぎもせず、まして崩壊するなどとは誰にも予想できなかった時代である。日本の国内の政治も、当時の世界のイデオロギーを反映して、社会党と自民党が国会を二分するいわゆる55年政治体制のもとにあった。

朝日新聞や岩波を中心とした「知識人」たちに、中国の文化革命や北朝鮮の千里馬運動を理想社会実現の試みとして共感し支持する者も少なくなかった。社会主義や共産主義に対する夢がまだ見られていた時代だった。学校教育の中でも、とくに日教組に属する教員のなかには共産主義者が少なくなかったし、彼らも自民党の教育行政と鋭く対立、拮抗しながら、一方で戦後の日本の教育のあり方を規定してきた。

戦後の日本は、朝鮮やドイツのように同じ民族がイデオロギーによって社会主義国家と自由主義国家に分断されることは免れたものの、同じ国内に二つの分裂国家を抱えていたようなものである。社会党や共産党と自民党が敵対的なイデオロギーで対立しながら、戦後政治を行なってきた。

公式には現在の北朝鮮は社会主義国家ということにはなっているけれども、かっての毛沢東中国と同様、その実質は封建的儒教国家とでも呼ばれるべきものだろう。そこでは国民大衆がまだ自由の意識を形成しておらず、自由な社会の上に形成された国家ではないからである。国民大衆が自由に解放されていない社会では、国家のその理論的な骨組みを社会主義に求めようが民主主義に求めようが、その実体は不自由な社会であることには変わりはないのである。

その点では、中国も朝鮮も日本もその民族的な資質という点では、類縁関係にある。いずれも儒教的な文化圏に属し、家父長的な封建体制の下に権威主義的な文化に長い間民衆が生活してきたという点では同じである。中国においては毛沢東の個人崇拝は今ではそれほど露骨ではなくなっているが、その芽はなくなってはいない。北朝鮮における個人崇拝は相変わらずである。これらの諸民族は自由についての経験も浅く、全体主義に馴染みやすい傾向をもっているといえる。

この傾向は、何も朝鮮や中国だけの話しではない。戦後は曲がりなりにも、日本では自由と民主主義を国是として運営されてきたので、それほど露骨な全体主義的な動向は見られないが、国民や民族の資質として、全体主義に馴染みやすい体質をもっていることは明らかである。

多くの自称共産主義者や社会主義者、平和主義者たちは自分たちの思想を狂信して、他者がそれ以外の信条をもつことを否定する傾向があるのもそうである。たとえば、今一部に存在する「日の丸」や「君が代」の否定論者たちは、その狂信的な、不自由な意識からすれば、彼らがひとたび強制的な権力を手にすると、現在の石原東京都知事以上の思想統制を実行するのではないだろうか。社会主義者や共産主義者が実際に国家権力を手にした諸国での歴史的な経験も、そうした事実を教えているのではないだろうか。自由を尊重する精神に欠けるという点では、右翼も左翼も同じ民族の体質として変わりはないのである。

戦後の日本国民は一応は建前としては、自由と民主主義国家に生活しているとはいえ、自由と民主主義の教育が十分に実行されてきたとはいえないし、その自由の意識が国民に十全に確立しているとも思えない。戦後の日本の教育が共産主義者の日教組と皇国史観の自民党文教族によって担われてきたために、学校教育での自由と民主主義の教育がはなはだ不十分であるという事実は自覚されていない。

民族の体質としては、全体主義の色彩を強固に残している。それは、教育や人間関係、宗教などの文化に刻印されていて、条件さえそろえば、かっての中国の文化大革命の熱狂が、再現されるようなものである。民族の体質としての全体主義的な傾向を完全に克服し切れているものではないと思う。

戦後の学校教育が自由と民主主義教育において十分にその責任を果たして来なかったことは、いわゆる有名大学の卒業生たちがオーム真理教などに対して何らの免疫力も持ちえていなかったことからも明らかである。その傾向は現在も改善されてはいない。



.

2006年9月30日土曜日

真珠の耳飾りの少女


真珠の耳飾りの少女

拡大図

ここに描かれているのは、明らかに妙齢の婦人ではない。幼児でもない。少女である。まだ女性になる前の。彼女は振り返るように私たちを見ている。

その二つの瞳の視線が交流するその焦点は、この絵の前に立って少女を見つめている私の眼の位置に合わせられている。そのことによって、平面の運命を免れないこの絵が、彫刻のような三次元の立体感をかもし出し、あたかもこの少女と同じ時間、同じ空間を共有しているかのような存在感に捉えられる。

少女は私を見ている。その瞳も、鼻も、やさしくあどけなく開いた色鮮やかで健やかな唇も、まだ小さく幼っぽく清らかで柔らかい。かといって幼児のそれでもない。この少女の小ぶりな顔は、彼女のこれからの成長を暗示するかのように、まだ開き切ってもいない。小さな莟のようにかわいらしい。内に静かに秘められた成長するエネルギーを感じる。

この少女のふたつの瞳は何を見ているのか。声を掛けられ、振り返ったその一瞬を捉えたような瞳は、私に否応なく彼女との二つの心の、精神の出会いを自覚させる。それは、この絵に描かれた少女の短い心の履歴を一瞬の内に想像させ、その一方でまた、世の中の塵と芥に薄汚れてしまった私自身の過去の来歴を思い出させる。この体験こそが作品にこめたフェルメールのテーマだ。

少女は、教会に飾られたマリアではない。地上に降りて来て、生活を私たちとともにする少女マリアである。この少女の面影に、フェルメールは明らかに聖母マリアを見ている。世俗の中のどこかに生きるマリアを私たちに思い出させる。あなたを見つめることによって、清められ、どうか癒されんことを。

画面の左から差し込む光に照らし出されて、漆黒の闇のなかに浮かび上がる少女の肖像は、レンブラントの肖像画の技法と同じである。ターバンの先端と彼女の胸と背中を結ぶ線によって、画面の中に二等辺三角形に大きく揺るぎなく据えられた構図は、単純で骨太く落ち着きを感じさせる。

トルコの民族衣装風の青いターバンと、銀の耳飾りの輝きと、白い襟は、互いに響きあって、この少女の純潔を印象づける。たしか白と青は伝統的にマリアを象徴する色彩ではなかったか。

フェルメールという画家は、きわめて寡作な画家である。日本でも人気のある画家である。この少女像はモナリザほど高貴ではないが、それだけ親愛感を抱かせる。さまざまな折りに触れたい名品である。


初稿




2006年2月9日木曜日

至高の国家形態


至高の国家形態
皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。


○男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論


○保守と改革──守るべきもの改めるべきもの


これらの問題について、もう少し考察してみたい。
至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由と秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。
自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。


しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。 かっての、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家の概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。


もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。 秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。


日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)


明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。


自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、奇形的な「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。


曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆかればならない。


アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることをもって「真理」であると誤解する、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家である。(20111206②)


2006/02/09