2011年10月2日日曜日
10月1日(土)のツイッター
前回§50の欲望のあたりまで進みかけたが、今一度立ち戻って、意識と自己意識の関連について確認しておきたい。意識→自己意識→欲望→相互承認という、意識の進展、あるいは精神の進展を展望しながらも、意識一般の概念について立ち戻って、その詳細を見ておきたい。
13:57 from web
§42 感性的意識
意識はさしあたり直接的な意識である。だから、対象に対する意識の関係は、単純な媒介されない、対象についての確実性である。それゆえ、対象自身も同様に、直接的な対象として、存在し、自己内に反省している対象として規定される。それはさらに、個別的なものと規定されている。
19:51 from Saezuri
自我自身は単に形式的な同一性として存在するに過ぎないから、概念の弁証法的な運動は、すなわち、意識の進行は、自我にとっては自分の活動として存在するのではなくて、本来的にあるものであり、意識にとっては対象の変化として現れる。§39
19:57 from Saezuri
「私」、すなわち意識の主体は思考である。対象の在り方における論理的な進行は、主体と客体とにおいて同一のものであり、主体と客体との絶対的な関係であり、客体をも主体自身のものたらしめるものである。い (ibid§39 )
20:04 from Saezuri
カント哲学はラインホルドによって、表象能力という名の下で、意識の理論として把握されたということは、カント哲学の正当な意義を捉えたものと見るべきである。なぜなら、カント哲学は、「私」を、彼岸に横たわっているもの、すなわち、物自体に対する関係として考察する。 (ibid補注 )
20:15 from Saezuri
フィヒテ哲学もカントと同じように、非我はもっぱら「私」の対象として、意識によって規定されているに過ぎない。だから、非我はどこまでも到達できない無限の対象として、すなわち、物自体として残っている。この二つの哲学は、概念に、すなわち自己自身において存在する精神には理解が及ばない。39
20:29 from Saezuri
スピノザ哲学においては、精神は、自己を「私」として、どのように判断するかは自由な主体として構成する自己分割、判断、つまりA=Aが、精神の絶対的な在り方だと認めるがゆえに、哲学はスピノザ哲学から始まる。§39補注
21:17 from Saezuri
意識としての精神の目的は、自己の現象を自己の本質と一致させること、自分自身の確信を真理にまで高めることである。精神が意識の中にもつ実際存在は自己の有限性を意識の中にもっている。だから精神が自己と形式的に関係することは、たんなる確信に過ぎない。a
21:44 from Saezuri
なぜなら、客体は単に抽象的に精神自身のものと決められている過ぎず、あるいは、客体の中にあって精神は、ただ抽象的に自分のものとして決められている過ぎないか、あるいは、精神は意識の中で、自分自身の中で、抽象的な「私」として反映しているだけのものである。b
21:46 from web
だから、この実際存在はまだなんら自分自自身のものではない一個の内容でしかない。c
22:28 from Saezuri
単なる表象は確信と真理を区別しない。内容がつまらなく劣悪なものであっても、その表象が客体と一致する主観的なものでありさえすればいい。
22:28 from Saezuri
しかし、哲学においては真理の概念は本質的にたんなる確信にすぎないものから区別されなければならない。
22:31 from Saezuri
なぜなら、精神がたんなる意識の立場にあるところの自分自身についてもつところの確信は、非真理のもの、自分自身に矛盾するものである。というのも自分自身の許にあるという抽象的な確信のすぐ側で、ほとんど正反対の確信を、自分にとって本質的に自身に向かう他者として振る舞う確信を精神はもつ。
22:43 from Saezuri
この矛盾は解消されなければならない。§40
主体的な確信は、対象について何らの制限も残してはならない。主体的な確信は真の客観性に至らなければならない。
23:43 from Saezuri
§417
確信が真理に高まる段階は次の通りである。
a. 意識一般としてあること。こうしたものとして は、対象は対象としてある。
b.自己意識、自己意識にとっては、「私」が対象で ある。
23:43 from Saezuri
c.意識と自己意識との統一。精神は対象の内容を
自分自身として、そして、自己の上にありかつ 自己に対して定められたものとして自分自身を 直観する。理性、精神の概念。
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2011年9月28日水曜日
再び天上の花

再び天上の花
山畑に行く途中、小学校の横を通りすぎた。秋の運動会に備えてのことか、民謡の花笠音頭をバックミュージックに、ちょうど児童たちが校庭で演舞の練習中だった。金網越しに子供たちのユーモラスな踊りぶりをしばらく眺めていた。
よく晴れていて美しい季節の昼前の一時で、時間に余裕があったので自転車で行く。 山に畑を作り始めて、もっとも不自由に感じることは、限られた時間の中で、気ままに方々を自転車で散策する時間が削られてしまうことだ。
前回来たときもすでに山辺には彼岸花のいくつかの咲きかけているのを見つけていたが、今日はさらに黄色く色づいた稲畑の畦のあちこちに、曼珠沙華が花の盛りを迎えたように咲いている。この秋になってはじめてコスモスの花の群生も見る。暑かった夏も過ぎ去り、もう秋が訪れに来る。

山の中では、イチジクの木がサルどもの悪戯にあって、大切な枝を何本か折られていた。自然界の中にあって、植物と動物の共生はどうなっているのだろうか。サルくらいの高等動物になると、すでに人間のように、遊びや悪戯をしはじめていることがわかる。むろん人間もサルもその肉体的生存は自然との物質的な代謝なくしてありえない。
山を散策していると、苔の上に熟し柿が一つ落ちているのに気づいた。ほとんど傷もなく、手にとって皮を剥いてみると、熟したゼリー状の実が現れる。口に入れると甘い。見上げると幹の古い柿の木があって、手で触れると凹みそうなくらいに熟した柿が、ちょうど手の届くところの枝にぶら下がっていた。幸運を思いながら、もいで口に入れる。一昨年にようやく根付いた「私」の柿も、サルやシカの牙を免れて無事に実をつけるようになるのに、果たしてあと何年かかることだろう。
さわやかな気候だったので、スコップを一本もって、市街地を見晴るかすことのできる所まで上る。お気に入りのいつもの場所だ。そこからの眺望を写真と動画に収めておく。今年は暇もなくイチジクの実はあきらめて、サルどもにほとんど呉れてやった。来年はもう少ししっかりと対策を施すつもりだ。
2011年9月12日月曜日
2010年8月15日日曜日
日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア
アメリカ・インディアンも日本人も同じモンゴル人種で、気の遠くなるような遙か遠い昔に、一方は、モンゴル平原やシベリア大陸からベーリング海峡を越えて東に向かい、南北両アメリカ大陸に渡った。もう一方ではユーラシア大陸の東辺境に沿って南に降りて行った。前者がいわゆるアメリカ・インディアンたちで、後者はやがて、満州族や朝鮮人となり、さらに日本人となった。
同じインディアンでも、北アメリカに渡ったアメリカ・インディアンたちは、二百年ほど前に、西部開拓を押し進める南北ヨーロッパからの白色人種の移民たちによって、殺されたり追い払われたりした。今は狭い居留地に閉じこめられて、自閉的で退廃的な生活を過ごしているらしい。
それから約百年も経たないうちに、ヨーロッパからの白人移民たちはアメリカ人となって、北アメリカ大陸の東海岸に行き着いた。しかし、彼らは行き所を失って海に、広い太平洋に出ざるを得なかった。そして、彼らがやがて辿り着いて出会ったのが、ユーラシア大陸の東の半島や島々の辺境地に住み着いていた満州族や朝鮮族、日本族のインディアンたちだった。
とりわけ日本族インディアンたちは、アメリカ・インディアンを退治するようには簡単に始末できなかった。南太平洋の島々でさんざん梃子づらせたあげくに、広島と長崎に原子爆弾を二発投下してようやく、彼らを力づくで押さえ込むことができた。
そして、マッカーサーを首領として日本列島に乗り込んできたアメリカ人たちは、彼ら日本族インディアンたちが二度と反抗することのないようにと、武器を二度と持たさせないために「平和憲法」を拝ませてやる代わりに、被害者意識で日本族インディアンに対する憎悪に凝り固まった漢族共産主義者たちから、彼らを守ってやらなければならなくなった。
アメリカ・インディアンと同様に今やテレビやサッカーなどの娯楽に夢中で、昔のサムライ精神を忘れて腰抜けになった今の日本族インディアンたちには、これからも狭い日本列島におとなしく居留させてやる代わりに、自分を守れない彼らをアメリカ人は保護してやる責務がある。
すでに、日本族インディアンがアメリカ人にやっつけられてから今年で六十五年目に入った。今年もまた日本族インディアン国首相である菅直人氏は、靖国神社にはA級戦犯たちが祭られているという理由で、参拝にも行かないそうだ。
敗戦で属国になってしまった国の酋長、菅直人氏は、やはり宗主国の意向に逆らう度胸もなく、今となってはアメリカ合衆国日本州の知事でもあるのだから、勝者であるアメリカ合衆国が六十五年前に厳かに宣言した東京裁判の判決を、唯々諾々と踏襲するのも、もはや当然といえば当然のことなのかもしれない。
A級戦犯というのは、確かアメリカ人たちが自分たちに反抗する日本族インディアンの酋長たちに被せた罪名だったはずだった。が、戦争が終わってすでに六十五年にもなるというのに、アメリカ人たちが反抗日本族インディアンたちを懲らしめるために裁判でつけたこの罪名を、今なお後生大事に守っている。
同じ日本族インディアンの酋長である菅直人氏は、七十年数年前に強大な敵に立ち向かって誇り高く戦った同胞の先輩たちを、A級戦犯と呼んで今なお何の疑問を持つことも恥じることもない。
自分たちの占領政策のこれほどの絶大な効果に、きっとアメリカ人たちは、眼から涙を流して腹の皮のよじれるくらいに笑っているに違いない。それなのに、愚かにも愚かな日本族インディアンの酋長、菅直人氏の、アメリカと全世界に対する感謝と詫び状は、六十五年度目に入った今年もまた以下のようなものであったらしい。
★敗戦65周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長菅直人氏の感謝ならびに詫び状(別名、全国戦没者追悼式内閣総理大臣式辞 )
本日ここに、天皇皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、戦没者の御遺族並びに各界代表多数の御列席を得て、全国戦没者追悼式を挙行するに当たり、政府を代表し、式辞を申し述べます。
終戦から六十五年が過ぎ去りました。祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に倒れ、戦禍に遭われ、あるいは戦後、異郷の地に亡くなられた三百万余の方々の無念を思うとき、悲痛の思いが尽きることなく込み上げてきます。改めて、心から御冥福をお祈りいたします。
また、最愛の肉親を失われ、決して癒されることのない悲しみを抱えながら、苦難を乗り越えてこられた御遺族の皆様のご労苦に、深く敬意を表します。
先の大戦では、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対し、多大の損害と苦痛を与えました。深く反省するとともに、犠牲となられた方々とそのご遺族に対し、謹んで哀悼の意を表します。
戦後、私達国民一人一人が努力し、また、各国・各地域との友好関係に支えられ、幾多の困難を乗り越えながら、平和国家としての途を進んできました。これからも、過去を謙虚に振り返り、悲惨な戦争の教訓を語り継いでいかなければなりません。
世界では、今なお武力による紛争が後を絶ちません。本日この式典に当たり、不戦の誓いを新たにし、戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、世界の恒久平和の確立に全力を尽くすことを改めて誓います。
戦没者の御霊の安らかならんことを、そして御遺族の皆様の御健勝をお祈りして、式辞といたします。
平成二十二年八月十五日 内閣総理大臣 菅直人
ところで、平成二十二年に棚からぼた餅で酋長になった菅直人氏の談話の前にも、とくにその馬鹿さ加減で歴史に名を残すことになったのは、ちょうど敗戦後50周年に当たる年に、たまたま日本族インディアンの酋長の地位にあった村山富市氏の酋長談話である。今年の酋長、菅直人氏の談話も、この村山富市氏の感謝ならびに詫び状を踏襲されたものであるから、この村山富市氏の談話も併せてここに記録しておくことにする。
★敗戦50周年記念、敗戦日本族インディアンの酋長村山富市氏の感謝ならびに詫び状(別名、村山内閣総理大臣談話)
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
戦後五十年の節目に当たりまして、総理大臣としての談話を述べさせていただきます。
先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
平成七年八月十五日 内閣総理大臣 村山富市
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向後百年後、二百年後の日本国民にこれらの歴代首相たちの談話の再評価に期待したい。が、しかし、すでに退嬰的で自閉的になった日本人には村山富市氏や菅直人氏らと同じように、相も変わらずの、アメリカと世界に対する「感謝と詫び状」を見直すだけの気概も主体性もすでに持ち合わせないかもしれない。
その場合には、アメリカ・インディアンと同じ運命が、哀れにも日本族インディアンたちをも襲ったことの証明にはなるだろう。歴史の非情に涙せざるを得ない。
参照
生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン
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2010年6月18日金曜日
生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣
pfaelzerweinさんが、ご自身のブログログの中に、サッカー日本チームの対カメルーン戦での、気の抜けたような試合を評されている中で、日本のサッカー選手たちのその気の抜けた表情を評して、アメリカ人監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ脚本で、1953年制作になったかっての「日本映画」『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)に登場する「生き残り日本兵の顔付き」のようだと述べられていた(『スカンポンなカメルーン西瓜』)。この記事読んでいて、pfaelzerweinさんが、映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)の取り上げるにしても、あまりにもその「批判精神無さ」が気になって、コメントを差し上げようと思った。けれども、コメントとしては長くなりすぎたので、一つの記事として投稿することにしたものです。
pfaelzerweinさん、日本サッカーの根本的な弱点について以前に私も考察したことがあります。そして、この弱点は、オシムから岡田に代わっても、克服され改善されるどころか、さらに退化し悪化しつつあると言えます。選手たちの個人的な能力が同等であるとすれば、監督がサッカーチームの戦力の八割を構成します。それほどに監督に人材を得なければ、世界の強豪チームに伍してゆくのはむずかしいということです。
日本サッカー、対オーストラリア初戦敗退が示すもの
ジーコとオシム
それはさておき、この記事で私がとくに批評したいと思うのは、サッカーのことではなく、この記事の中に取り上げられている映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)についてです。
太平洋戦争の日本の敗北を契機にそれ以降、旧大日本帝国軍人とその軍隊を貶め揶揄する映画が、数多く作られました。日本人の意識改造と民主化政策の名の下に、GHQの占領政策とそれに便乗する反日日本人たちによって、とくに共産主義勢力と、民政局などに所属して当時のアメリカ政府に一定の勢力を占めていた、「進歩的知識人」たちは、日本国憲法の制定など、日本人と日本国の改造に深く関与しました。
同時に彼らは、自分たちの太平洋戦争を正当化するために、旧大日本帝国軍人とその軍隊の「残虐さ」や「醜さ」「愚かさ」を、とくに映画などによるプロパガンダを通じて、日本国民を徹底的に洗脳しました。ここでpfaelzerweinさんが取り上げておられる映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)もそうした目的で作られた数多くの映画の中の一つです。
その結果、戦後育ちのいわゆる「戦後民主主義」で教育された日本国民のほとんどが、そうした無自覚なバイアスをもって、旧日本帝国軍人とその軍隊を見るように仕組まれています。
だから事実として、戦後世代のほとんどの日本人は、―――よほど、自覚的に努力して自らの生きる時代と受けてきた教育を相対化して認識しようとしている者を例外として―――自覚的にせよ無自覚的にせよ、旧帝国軍とその軍人に対して否定的で拒絶的な悪感情を持っています。その教育の影響は、とくに戦後世代以降の日本女性に顕著に現れています。
英文学を専攻し英国に留学もした元法政大教授の田嶋陽子女史や、フェミニストで社会学者の上野千鶴子女史などはそうした女性の典型的な存在だろうと思います。実際、彼女たちの旧日本帝国軍人に対する憎悪の背後には、何十万何百万の小「田嶋陽子」女史、小「上野千鶴子」女史が存在しています。そして、おそらくpfaelzerweinさんご自身もそうした戦後世代の人たちのお一人であろうと思います。この洗脳の徹底ぶりのために、未だに日本国民の大多数は旧帝国軍人や軍隊に対する深い嫌悪感と憎悪を克服できないでいるのです。それは当然に彼女らの父や祖父、夫や兄弟など男性に対する潜在的な忌避感情につながります。それに併行して国民の間に伝統的な倫理観も破壊されてしまいました。そのために、国民として自らのアイデンティティーを彼ら自身の多くが確立することができないでいます。そして、そのことを彼ら戦後世代は自覚していません。現代日本の退廃と堕落とエゴイズムの深い根もここにあります。
もしそうでないとすれば、アメリカ人が日本人を揶揄しからかうために作った反日プロパガンダ映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)を取り上げ引用するにしても、ここまで徹底的に「批判精神無し」に、日本人と旧帝国軍人を揶揄しからかい貶めることなど考えることができません。さもなければ、大日本帝国憲法国家体制に対して、憎悪と反感を持つ確信犯的な反日日本人か、あるいは、帰化日本人たちの行う意図的な引用としか考えられません。その場合にはもはや議論の余地もないでしょうが。
映画『アナタハン』(英語: The Saga of Anatahan)はもともとアメリカ人監督、脚本制作による反日プロパガンダ映画なのですが、アメリカ映画とするにはあまりにも露骨なので、日本映画として配給されたものです。そこまで日本人がこけにされていることにさえ、ほとんどの日本人は気づかずに、今回のpfaelzerweinさんのように、まったくに「批判精神無しに」、この映画のことを引用したり、語ったりするのです。
太平洋戦争の敗戦以降、戦後世代の精神構造から、さらに幾世代にわたってますます浸透し深刻化しつつある、こうしたGHQの占領政策による洗脳から、日本人が解かれない限り、pfaelzerweinさんのおっしゃるように、「「君が代」を口ずさむ日本人サッカー選手たちの顔付や日本人サポーターの顔付きから、「島で一人の女を争そう「あなたはん」物語の生き残り日本兵のような情けなさ」は消えてなくならないだろうと思います。
2010年06月18日
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2010年6月10日木曜日
ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ
たまたま入った喫茶店で、そこにおいてあった新聞に目を通していたとき、「現代のことば」というコラムがあった。そこに、同志社大学教授で国際経済学を専攻する浜 矩子(のりこ)氏が、「再び黄昏か、ポスト鳩山の日本政治」と題する小文を書いておられた。
浜氏は詩篇第百二十六篇から「涙のうちに種蒔くものは、歓びのうちに刈り取る」という一文とオペラ「ナブッコ」の中の一節「行けよ、我が思い。黄金の翼に乗って」を挙げた後、ヘーゲルがその著『法の哲学』の序文に語って以来、しばしば誰にでも引用されるようになった、「夕暮れ時になってはじめて飛び立つミネルヴァのフクロウ」について、次のように述べられていた。少し冗長になるが引用する。
>>
「翼といえば、もう一文。「ミネルバの梟(ふくろう)は黄昏時(たそがれどき)に飛び立つ」というのがある。これは、かの大哲学者ヘーゲルの言葉だ。彼の「法の哲学」の序文の中に登場する。
ミネルバは知恵の女神。フクロウはその使者である。古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いたかったのである。
<< 引用終わり。
確かに、①「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」とヘーゲルは書いているが、この一文は、その前文の比喩的なまとめとして述べられているのものである。その前には次のような文がある。
②「哲学が、その灰色に灰色を重ねてさらに塗り重ねるとき、そのとき生命の姿はすでに年老いたものになってしまっている。そして、灰色の中に灰色を塗ることによっては生命の姿は自らを若返らせることはできず、むしろそうではなく、ただ認識されるのみである。」
そして、②→①と続くこれらの文自体は、さらにその前に以下のパラグラフを受けて述べられたものである。
③「なお、世界はいかにあるべきかを教えることについて、一言言うなら、いずれにせよ、哲学は、そのためにはいつも遅すぎるのである。哲学が世界についての思想を時代の中にまず現すときには、すでに現実はその形成過程を仕上げており、自らを完成させてしまっている。概念が教えることは、必然的に同様に、歴史も教えている。すなわち、現実の成熟することのうちに、観念的なものが、まず現実的なものに対して互いに現れ始め、そして、前者(観念的なもの)は自らを、現実的な世界をその実体において把握して、知的な王国の形に築き上げるのである。」
だから、③→②→①とつながってゆく文脈のなかで、「ミネルヴァの梟はまず、迫りくる黄昏とともにその飛翔を始める。」という一文の示す意味は、哲学が現実の成熟のあとに遅れてやってくるものであるということ、現実が完成されてのちに、はじめて観念の王国、知の王国、哲学の王国が建設されるということを言おうとしているのであって、浜氏の言うように、
>>
「古い知恵の黄昏の中から、新しい知恵の到来を告げつつ、知恵の女神の使者が飛び立ってゆく。そのようにして、人類は歴史の中を前へ前へと進んでゆく。そうヘーゲルは言いかった」
<<
ということなどではない。浜教授がここで推測しているように、フクロウは「新しい知恵の到来を告げる」ようなもの、ではまったくなく、フクロウに象徴される哲学というものは、現実が成熟した後に、その現実の中にひそむ実体を、知の王国として、観念の形態で、認識するに過ぎないということを言おうとしているのである。だから、ここで浜教授は、ヘーゲルが『法の哲学』の序文で言おうとしていることとはむしろ逆のことを言っている。
たまたま、この「夕暮れに飛び立つフクロウ」は、私のブログのタイトルでもあり、この標語の言葉の正しい真意が伝わらないとすれば、残念なことである。ヘーゲル哲学についてほとんど何の知識も持たない、多くの人々の誤解を避けるために一言しておかなければならないと思った。
このように正しい認識ではなく誤った認識を、大学教授が世間に流布するのも問題であるし、また、京都新聞の編集部には、あまりにも自明なこのヘーゲルの言葉の正しい真意を、浜教授に伝えるものが実際に誰もいなかったのだろうかとも思う。
ミネルヴァのフクロウは、すなわち哲学は、世界がいかにあるべきか、について教訓をたれようとするものではない。そうではなく、哲学は実在する現実の中に理性的なものを探求することであり、事柄の必然性という、現実的なものを把握することである。同じ序文でヘーゲルが言っているように、国家学は――哲学も――国家がいかにあるべきか教えることにあるのではなく、国家という倫理的な世界が認識されるあるがままを教えるものである。
これまでにも何度も繰り返し語ってきたように、国家や国民、民族の文化学術水準というものは、大学や大学院の水準に、それもとりわけ「哲学」の水準に規定されるものである。大学院で学者たちの提供する理論水準以上に、優れた国家を形成することはできないのである。
逆に言えば、国民は自らの民度にふさわしい程度の大学、大学院しかもてないということである。
菅直人首相も、安部晋三元首相も、麻生太郎元首相も鳩山由紀夫前首相も、大学や大学院で教授され教養を積んでから、市民社会に出て、ときには一国の首相の地位に就いたりするのである。だから、彼らが大学や大学院でどのような学問修行を積み重ねてきたのか、大学教授たちが、学生時代の彼らに、いかなる教育訓練の修行をさせてきたのか、それによって、国家や社会の各分野の指導者の資質も規定されるのである。政治においても劣悪な指導者しかもてないとすれば、それは、彼ら「指導者」たちが受けてきた大学、大学院での教育訓練が、事実として劣悪であったということを証明しているにほかならない。
新聞記者も学校教師も政治家も企業家も医師もスポーツ選手も、すべて大学、大学院で教育訓練されて社会に出る。やがて各分野で指導的な地位について行くにしても。だから、国家、国民、民族の運命を決するのは、大学、大学院での教育訓練の実際の内容である。劣化し堕落した大学、大学院での教育改革こそが、国家・国民・民族の死命を制することになるのはそのためである。
現在の多くの大学の憲法学者たちのように、自ら妄想する憲法第9条の「理想」を教え垂れるのではなく、まず、現実の世界史の中にある諸国家の実相をまず学生たちに教えなければならない。
ヘーゲルによれば、過酷な現実の中に見出すことのできる理性の与える満足というものは、憲法九条のような枯れた尾花のように拙く浅いものではない。それは生きたみずみずしい薔薇の花であり、その美しさに歓び踊り心より満たされるものであるという。
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2010年6月3日木曜日
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン―――歴史の見方
歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン―――歴史の見方
部分的な真実と全体的な真実
歴史を見る場合でも同じことがいえると思う。真相を把握するためには、単に物事を部分的に見るばかりではなく、全体的に見なければならない。事物について思考し判断する場合と同様に、歴史についても部分を精察するとともに、全体を俯瞰し眺望する必要がある。
先に行われた第二次世界大戦の一環として日米の間で戦われた太平洋戦争についても同じことが言える。二〇世紀も中盤になって太平洋を挟んで日本とアメリカが対峙しあった太平洋戦争も、それを大きな歴史的なパースペクティブで捉えることは欠かせない。
アメリカ大陸の東海岸に―――彼らがその地を後にニューイングランドと名付けたように――上陸したピューリタンたちを端緒として、イギリスからの本格的な入植が始まった。やがて、それも産業革命にともないイギリス本国の産業の発展によって、当時のイギリスの植民地としてアメリカ大陸への入植はいっそう活発になった。入植者たちは新しい新天地と富を求めて、西へ西へと向かう西部開拓を押し進めてゆく。やがてカリフォルニアに金鉱が発見され、いわゆるゴールドラッシュによって、アメリカの西部開拓はさらに加速される。
しかしすべてに終末があるように、いわゆるWASPの後裔たちが、西へ西へと活路を求めていった西部開拓も、彼らがやがて北アメリカ大陸の西岸、カリフォルニアにたどり着いたとき、もはや大陸本土での新天地はなくなった。しかし、工業力の発展に伴って彼らが豊かに生み出すようになった商品や植民地での産物の販路を求めるためには、必然的に太平洋の大海原に乗り出さざるを得ない。北アメリカ大陸からは太平洋の大海原の向こうにあるユーラシア大陸の極東岸にも、遅かれ早かれ彼らもたどり着く。そこに日本は地理的に位置していた。
こうしたいわば歴史的な必然のもとに、ペリー提督が神奈川県沖の浦賀に到達したのである。このとき日本は、まだ江戸幕府300年の太平の眠りについていた。北アメリカ大陸においては、西部開拓の途上で、彼らに敵対していた先住民であるいわゆるインディアンたちは、すでにその牙もすっかり抜かれて、ほとんどの部族は消滅させられていた。彼らは土地を奪われ、狭い居留地に押し込められてゆき、多くのインディアンたちは、西洋人の持つ近代的な武器の前に殺されていった。
アメリカ合衆国人の立場からすれば、太平洋を乗り越えて極東で出逢うことになった日本人もまた、二〇世紀における新たなインディアンに他ならない。このことは、俳優の渡辺兼やトム・クルーズらが登場して、西洋人が彼らの視点から日本人を描いてひととき話題になった映画『ラストサムライ』を見ても明らかである。この映画と、アメリカ・インディアンの視点から合衆国軍との戦いを描いたケビン・コスナー監督主演の『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の二つの映画の本質的な同質性からも見てとれるものである。アメリカ合衆国人から見れば、十九世紀のアメリカ・インディアンも二〇世紀に太平洋戦争を戦った私たち日本人も本質的に異なるものではない。
すでに日本人は相応の文化を保持していたから、もちろん、アメリカ・インディアンとは異なって、簡単には部族を消滅させられることはなかった。むしろ、黒船来航を機に、日本人は明治維新をやり遂げて強力な軍事力を持つ近代国家を確立して、欧米列強と互角に対峙し得るまでになった。とはいえ、すでに歴史に見るとうり、日本人もまたアメリカインディアンと同様に、最終的には原子力爆弾の投下によって力ずくで壊滅させられ、そして、アメリカ合衆国軍による日本の占領統治は現在にいたるまで事実上続いている。
歴史を大きなパースペクティブから見つめるとき、つまり世界史の視点で自己を客観視するとき、あるいはヨーロッパ人やアメリカ合衆国人の視点で日本と日本人を見つめるとき、アメリカ・インディアンも日本人もさしたる違いはないのである。日本人は二〇世紀のインディアンに過ぎない。これからの世界史を私たちが生き抜こうとするとき、こうした歴史の教訓と立場を自覚しておく必要があるだろう。
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